『書記バートルビー』(原題:Bartleby, the Scrivener : A Story of Wall Street)は、1853年に発表された中編小説。『白鯨』などで知られるアメリカの小説家ハーマン・メルヴィルの代表作のひとつです。
※本記事では光文社古典新訳文庫の牧野有道訳を参考にしています。
あらすじ
ある時、弁護士の「私」のもとに法律文書作成の仕事が大量に舞い込んできた。人手を増やすべく求人広告を出したところ現れたのがバートルビーである。
物静かで哀れなほど礼儀正しいこの男が、激しい気性を持つ他の筆耕人2人に良い影響をもたらすことを期待して、「私」は彼を雇うことにする。
まるで書類を貪り食うように、バートルビーは異常な量の筆写をこなしていった。
しかし3日後、思わぬ事態が起きる。「私」は、照合作業を手伝ってもらおうとバートルビーに声をかけた。すると、驚愕の一言が返ってきたのだ。
「わたくしはしない方がいいと思います」
主な登場人物
私
年配の弁護士。慎重で無難な人柄で、「安楽な生き方が一番」をモットーとする。法廷で熱弁をふるうより書類仕事を好む。
バートルビー
青白い顔をした大人しい男。私生活や経歴に関する一切合切が謎。「私」の知る限りではジンジャーナット(生姜入りビスケット)しか食べない。
ターキーとニッパーズ
60歳くらいの筆耕人と20代の筆耕人。午前と午後で入れ替わるようにして事務処理能力や性格が変化する。
内容紹介と感想
本作は、著名な哲学者や現代思想家たちが言及するほどに示唆に富んだ物語です。
I would prefer not to.
先輩職員のターキーとニッパーズも大概ですが、バートルビーはそれをはるかに上回る変人でした。筆写以外の頼まれごとは絶対にしてくれません。
彼の口癖は英語だとI would prefer not to.となり、慇懃無礼というか、非常に独特な言い回しです。
「それは採用時に提示された業務内容に含まれていません」とか「今は体調が悪くて」とか、なんなら「面倒くさい」でも、とにかく具体的な理由を話してくれれば、「私」にも対処しようがあったしょう。
しかしバートルビーは「しない方がいいと思います」と繰り返すだけ。そこには感情らしい感情も見えず、呆然とした「私」は腹を立てることさえできませんでした。
「私」が筋道立てて説明しても手応えなし。暖簾に腕押しとはまさにこのことです。
受動的な抵抗
時々苛立ちはしたものの、「私」はバートルビーに対して寛大であろうと努めます。彼は気の毒な男なのだ、悪意はないのだ、それに何より勤勉なのだから、と。
ところが状況は悪化の一途をたどります。まずはその後の展開をいっきに説明してしまいましょう。
- 朝一に出勤し、夜遅く帰ると思われていたバートルビーが、実は事務所に住みついていたことが発覚。
- バートルビーがついに筆写までしなくなる。仕事をしないなら事務所から出ていくよう「私」は求めるが、失敗。
- これも運命、と一度は現状維持を決めた「私」だが、事務所の評判に影響してきたため方針転換。逆転の発想で「私」の事務所を移転。
- 新しく入居した弁護士や前の家主から、おたくの元従業員がうろついているのでどうにかしてくれ、と苦情がくる。いったん「私」の家に来ないかと提案するも失敗。
- 嫌気がさした「私」がしばらく留守にしている間に、家主が警察に通報。バートルビーは刑務所(通称「墓場」)に連行される。
- まともな食事は体に合わないと絶食を続けたバートルビーが「墓場」で死亡。
食生活などに関して元々セルフネグレクトじみたところのあったバートルビーですが、自らの生命まで手放してしまう最期はショッキングです。
一貫して受動的なので、死はあくまで〈結果〉であって、自ら進んで〈選択〉したという感じがいまいちしないのが余計にモヤモヤします。
「私」の痛み
ところで、ギリギリまでバートルビーと関りを持っていた「私」も、相当変わり者ではないでしょうか。最初のうちは事なかれ主義なのかとも思っていたのですが、「私」のある種の献身は、そんな言葉では片づけられなくなっていきます。
先述の通り「私」の自宅に来て身の振り方を考えたらどうか、という提案だってしましたし、「墓場」で何も口にしていないと聞けば、自腹を切って豪勢な食事を差し入れてもらえるよう手配しました。
これは持ち前の善性によるものなのか、聖書の話題をよく出すところからして隣人愛を重んじているのか、乗りかかった船という認識なのか……。
「私」自身もあれこれ逡巡します。自ら事務所の移転を決めたというのに、「あんなにも追い払いたかった彼から、自分の身を無理に引き剥がしているような気持ちがした」というのですから、驚きです。
「私」にとってのバートルビーは、もはや当たり前にそこにある、生活の一部となっていたのかもしれません。
異邦人としてのバートルビー
「私」のところには仕事仲間も時々出入りします。
オフィスにいるのに何もしないバートルビーは、他の仕事人からすれば「私が事務所で飼っている奇妙な生き物」、特殊な生態を持つエイリアンと見なされました。
カミュ作『異邦人』の主人公ムルソーが、母親の葬式で泣かなかったことをひどく責められたように、社会の常識から外れた人間はよそ者、異物なのでしょう。
加えてバートルビーの場合、対話を試みてもろくに喋ってくれないのが厄介なところ。
それだけに、なぜ筆写をやめたのかと問う「私」に対して、バートルビーが「あなたはその理由をご自分でおわかりにならないのですか」と返してきたときは動揺しました。我々はわかって然るべきだったのでしょうか。
「私」はなるべく好意的解釈をしようとしていましたが、バートルビーを理解しようという行為も、結局はこちらの常識の枠に押し込んでいる気がして悩ましい。
配達不能郵便物(デッド・レターズ)と死者(デッド・マン)
のちにカットされたものの、当初タイトルにA Story of Wall Street(ウォール街の物語)と付いていた点は注目に値するでしょう。
わざわざウォール街を舞台にしているという時点で、当時の資本主義社会や商業主義への批判が物語の背景にあるであろうことは察しがつきます。
何かを「した」わけではなく「しなかった」ために死へと向かっていったバートルビー。
最後に語られる、バートルビーの過去にまつわる噂も意味深です。その風説によると、彼はかつて配達不能郵便物局の下級職員だったといいます。
どこにも届かない手紙を、燃やすためだけに仕分ける日々。手紙に込められた人々の想いなんて関係ありません。
ドストエフスキー作品に次のようなくだりがあるのですが、こうした「まったく無益で無意味な作業」に近しい空しさがあったのではないでしょうか。
あるときふと頭に浮かんだのだが、もしも一人の人間をすっかり押し漬し、破滅させてやろうというつもりで、(中略)最高に恐ろしい罰を科すとしたら、ただ単に一から十までまったく無益で無意味な作業をさせればいいのだ。
(ドストエフスキー『死の家の記録』望月哲男訳、光文社古典新訳文庫)
文章を消去する生活の反動で、事務所に来た当初は文章を生産することに飢えていたのだろうか、とチラッと考えてしまいました。
決めつけない方がいいと思います
過去らしきものを聞き、バートルビーの性格や態度の不可解さについて一応説明がついたつもりでいました……が、しばらくして本当にそうか?という疑念が頭をもたげてきました。
「私」も断りを入れているように、上記の情報は暗示的ではあるものの、真偽不明なのです。
無気力なバートルビーは社会の犠牲者だったのかもしれない。もしかしたら、うつ病などを患っていたのかもしれない。
しかし、本当のところは違っていて、彼の行動原理(というより不動原理?)は全く別のところにあった可能性もあります。
私は「私」ほど優しくないので、ひねくれた見方をしてしまいますが、バートルビーなる奇怪な人物が気になって仕方がないという点では「私」と同類になってしまいました。
バートルビーに対して「なんだこいつ」と思う人もいれば、「自分と似ているなあ」と思う人もいるでしょう。いずれにせよ「こう」と決められないところが、本作を議論の尽きない物語にしているのだと思います。
