今回は、多重解決ミステリーの先駆的作品として知られる『毒入りチョコレート事件』ほか、構成力が冴えわたるミステリーを紹介したいと思います。
〈多重解決ミステリー〉アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』
毒入りチョコレートを使った事件をめぐるミステリー。ペンファーザー卿が試作品のチョコレートをベンディックス夫妻に譲った結果、夫は一命をとりとめたものの、夫人のほうが亡くなってしまいました。
この未解決事件をテーマに、「犯罪研究会」のメンバー6名が異なるアプローチで異なる犯人の名を挙げ、推理合戦を展開していきます。
1929年に発表された本作は、多重解決ものの古典的名作です。複数の推理を構築した作者の力量にうなること間違いなし。特定の探偵役が語る推理だけが絶対的に正しいというミステリー小説のあり方に一石を投じているようなところもあります。
ただ、推理作家のブラッドレーが途中で披露する「よって犯人はオレ!」というめちゃくちゃな推理の流れには思わず笑ってしまいましたが……。
また、シリーズ探偵のロジャー・シェリンガムとアンブローズ・チタウィックがそろって登場しているのも注目ポイントです。
その作風からアンチミステリーと呼ばれることもあるバークリーの小説。『第二の銃声』や『ジャンピング・ジェニイ』などでも、これまた探偵役のシェリンガムが情けないことになっていたりします。
少しひねくれた作風が好みの方におすすめのミステリーといえるでしょう。
ちなみに、米澤穂信の『愚者のエンドロール』(〈古典部〉シリーズの2作目、アニメ『氷菓』の原作)は、『毒入りチョコレート事件』のオマージュなんだとか。作者曰く「本歌取り」であるとのこと。
〈読者への挑戦状〉ビル・S・バリンジャー『歯と爪』
現在の時間軸では、使用人を手にかけた容疑で主人が裁判にかけられています。遺体が一部(義歯や右中指の先など)を残して消え去ったという不可解な事件です。
過去の時間軸では、マジシャンである主人公リュウと妻との出会い、ほほえましい新婚生活、そこから一転して悲劇的な事件の発生、リュウによる復讐物語が描かれます。
過去と現在を交互に描写し、徐々に事件の全体像が明らかになっていくという物語構成。発売当初の本は種明かしの部分が袋とじになっていたといいますから、なんとも挑戦的です。
リュウが魔術師としてのスキルをどのように使って復讐を果たすのか、という点に注目しながら読んでみてください。目的は達成したものの、あまりに多くのものを失った主人公の姿にラストはやるせなさが残ります。
ちなみに、作中重要な小道具として機能する「歯と爪」ですが、英語の慣用句tooth and nailには「必死に、全力で、手を尽くして」といった意味もあるそうです。
〈わたしが犯人?〉セバスチャン・ジャプリゾ『シンデレラの罠』
火事による後遺症で記憶を失ったヒロイン。火事が発生した夜は2人の女性がいっしょにいましたが、ヒロインにはそのどちらが自分であるかさえわからないのです。彼女は自身の過去を探り始めますが……。
二転三転して明かされる事実は衝撃の連続。ここでの主人公は、真相を追う探偵役であり、唯一の現場目撃者です。そして被害者、あるいは加害者なのか?
周囲の人間は、生存者=お金持ちの伯母さんから遺産相続される予定のミ(ミシェル)、焼死した女性=ド(ドムニカ)と認識しているようですが、当の「わたし」本人がそれに疑問を抱いています。
最初のうちは「いくら大火傷で顔も記憶も失くしたとはいえ、そんなことありうるだろうか?」と思っていました。しかし読み進めていくと、ミとドがお互いに……ということが判明し、「これは混乱するのも無理はないかもしれない」という感想に変わりました。
遺産相続をめぐる確執に収まらない、女性同士の奇妙で複雑な関係描写が印象的です。
〈種も仕掛けも…〉泡坂妻夫『しあわせの書―迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術―』
後継者問題を抱えた宗教団体「惟霊講会」で信者の失踪事件が発生。調査を始めたヨギガンジーたちは、2代目教祖を決定するための断食勝負に立ち会うことになりますが……。
なんだかすごく胡散臭さが漂うタイトルに見えちゃいますよね。「しあわせの書」というのは、作中に登場する布教用の本のこと。その体裁はカバーをはずした新潮文庫にも似ているような……?
最後まで読んで何重にも施された仕掛けにびっくり。いやあ、これは凝ってますよ。マジシャンでもある作者の本領が発揮されたトリックであると思います。
また、マジック好きには同作者の『11枚のとらんぷ』もおすすめ。大枠となる事件は奇術ショウの裏で起きた殺人なのですが、解決編の前に作中作(事件解決のヒントを含む)がはさまれています。長編小説でありながら小ネタ満載の短編集としても楽しむことができ、一粒で二度おいしい作品です。
〈ある作家の手記〉都築道夫『猫の舌に釘をうて』
ミステリー作家の主人公は、失恋した腹いせに毒殺もどき(使うのはただの風邪薬)をして気を晴らそうと考えます。ところが、なぜか本当に死亡者が出てしまい……?
私はこの事件の犯人であり、探偵であり、そしてどうやら、被害者にもなりそうだ。
意欲的な試みをしている作品です。『シンデレラの罠』同様、語り手が複数の役割を担っていますが、記憶喪失ネタはなし。また、ある意味では『しあわせの書』と似た本でもあります。
タイトルが不穏なので動物好きの方は身構えてしまうかもしれませんが、特に猫がひどい目にあったりはしないのでご安心ください。本作は主人公が束見本(つかみほん)に書き込んでいるという体になっており、その仮題が「猫の舌に釘をうて」なのです。
束見本は中身が真っ白の製本サンプルのことで、ここで語り手が作家であるという設定が上手く活きてきます。
〈衝撃のラスト〉山田風太郎『明治断頭台』
時は明治初期。メインキャラクターは弾正台(明治2~4年に設置されていた警察機関の一種)の大巡察・香月経四郎にフランス人の巫女・エスメラルダ、さらには実在の人物である川路利良なども出てきます。
金髪の美女エスメラルダが口寄せをして事件を解決に導くという、推理小説としては異色の設定のもとに物語は進行するのですが……。
時代小説でもあるため、現代を舞台にしたミステリーとは違った趣があって味わい深かったです。タイトル通りギロチンを出せるのも、歴史のゆらぎを描けるのも、明治という時代ならではでしょう。
連作短編の形式なので1話ずつ区切りがついているものの、本作は必ず最終話「正義の政府はあり得るか」まで読んでください。怒涛の勢いで回収される伏線の数々、見事にまとめきった作者の手腕に感服します。
そして、序盤から登場していた邏卒(らそつ)たち。不真面目だった彼らがあのような形で活躍したことにちょっと感動。ただ、エスメラルダの処遇に比べると、香月をけなげに慕っていたお縫さんが不憫すぎるのではないかとは思いました。
〈たった一行で…〉綾辻行人『十角館の殺人』
1986年、ミステリ研究会に所属する大学生の男女7名が合宿で孤島・角島(つのじま)を訪れました。宿泊先は十角形の奇妙な外見をした館。それは前年焼死した建築家・中村青司が建てたもので、島には幽霊が出るという噂が……。
作中では、無人島と化した角島で起きる連続殺人事件と本土での調査を交互に描いています。
本作は、トリックの内容以上に情報の開示の仕方が秀逸なミステリー。「“たった一行”が世界を変える」というキャッチコピーが帯についていたことがありますが、まさにその通りの展開です。
探偵役が長々と推理を述べた後の指摘であったなら、これほどまでに印象に残る作品にはならかったでしょう。魅せ方が上手いんですよね。
もっとも犯人の動機に関しては、「ここまでする必要があったのか?」と思ってしまい、非常にモヤモヤしましたが……。
なお、驚くべきことに本作にはコミカライズ作品(漫画:清原紘)があります。
さらに、2024年3月にはHuluで実写ドラマが放映されました。
おわりに
どの作品もその優れた構成に舌を巻いてしまいます。一風変わったミステリーをお楽しみください。