ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡―迷宮』

作品紹介

『鏡のなかの鏡』は、ミヒャエル・エンデが贈る大人向けのファンタジーです。連作短編で30の話からなり、似た人物やモチーフが繰り返し登場するのが特徴です。
ちなみに作中の絵は、ミヒャエルの父でシュルレアリスムの画家エトガルによるものです。芸術家一家なんですね。

実をいえば、この本を初めて読んだとき、一部の話を除いてあまり面白いとは感じませんでした。暗くて意味がわからないという印象が先に立ったのです。私の中でエンデ作品といえば児童文学で、『モモ』や『はてしない物語』は明確なテーマがあってわくわくする話でしたから。

ところが読み返していくうちに、いつの間にか好きな作品のひとつになっていたのです。その時々によって感想の変わる、なんとも不思議な作品です。
というよりも、私の意識がどこかで変化したのでしょう。訳者の丘沢静也氏の言を借りれば、「本は読者を映しだす鏡であるが、同時に読者もまた本を映しだす鏡である」ということになりますね。

物語

個人的に印象深かった話を簡単に紹介します。

第1話
「ぼく」こと「ホル」のささやき声から物語は始まる。彼はひとりぼっちで、からっぽの空間に住んでいる。決してたどり着くことのない外界の様子を彼は空想する。

許して、ぼくはこれより大きな声ではしゃべれない。

第2話
翼を生やした若者は、迷宮を出るための試験を受ける。課題は受験生によって異なるうえ、事前に内容も知らされていない。不幸な住人たちは、彼に羨望の目を向ける。

第3話
屋根裏部屋で試験勉強をしている大学生。間借りしている屋敷の主人が亡くなり、階下では相続人たちがいまだに争いを続けているようなのだが……。

第4話
札束があふれかえった駅カテドラル。スピーカーの声が謎のカウントダウンを続けている。消防士が修道服を着た女性に道を尋ねると、ここは「途中駅」であるという。

第5話
舞台に立つバレリーナ。いつまで待っても幕は上がらない。かといって、実際に幕が上がった瞬間を思うと、待つのをやめることもできない。

第13話
部屋でもあり砂漠でもある場所を進むのは、老いた花婿と役人風の男。何年、何十年経っても、部屋の反対側にいる花嫁のもとにたどり着かず、花婿は疲弊しきっている。

第20話
魚の眼をした男は、いつものように帰りの市街電車に乗ったつもりでいた。ところが、電車は見覚えのない場所を走り始め……。

第21話
女王は、かつて彼女に誓いを立てた老人を呼び出した。孤独を抱える女王は、老人が無償で受け取った品をせめてもの慰みにわけてほしいのだという。

第25話
少年は、ジンに連れられある通りにやってきた。これは授業の一環なのだとジンは言う。近くにいた道路掃除と話をしていると、ぼろぼろになった男が現れた。

第26話
雨が降りしきる教室で、教師を待つ6人の男女。教卓の上には、綱渡りの衣装を着た少年が横たわっている。

第30話
扉「だけ」をずっと見張っている兵士たちのもとへ、闘牛士姿の若者と王女が現れた。若者は、これから中に怪物退治に行くものと思っているが……。

 あなたは本気で、外のこの世界が迷宮につながっていると信じているのですか? この扉の存在によって、扉の前も、扉の後ろもなくなるのです。この世界ですら、あなたがこれまで夢見てきた、そしてこれからも夢見ることになる数多くの夢のひとつにすぎないのです

感想

第1話、はてしない空間をさまよう「ホル」の語りにぞくぞくすることになり、多彩なイメージあふれる物語の数々を経て、第30話ラストで再びぞくりとさせられます。

「迷宮」というだけあって、不安や行き詰まりを感じさせる物語が多いですね。
第25話の「敗北者」に関する次の説明なども象徴的です。

あんたの知ってる物語は、じつはたったの一種類じゃ、なあ坊や、謎を解くことができる百番目の王子の物語だけなんだ。だがその王子のまえの九十九人の物語は知らんのじゃ。

私たちが普段目にする物語やメディアで紹介される人物の多くは成功者です。しかし、実際はその何倍もの見えない失敗者がいるはず。この『鏡のなかの鏡』は、そんな敗北者よりの物語なのだろうと思われます。

そんななか、20話目と26話目はどこか解放感があります。第20話のラストシーンでは、魚の眼をした男と一緒に思わずどきりとしてしまいました。
第26話で皆に同行するかどうかで躊躇する男に対する台詞も好きです。

「ぼくらにはあなたは重要じゃない」と少年はこたえた。「でもぼくらの芝居にはどんな人でもふさわしいんです」

この物語の登場人物は、いつからここにいてどこへ行くのか、前後のことがわからなくなってしまっている者ばかりです。しかし、現実の世界にいる私たちだって似たようなものではないでしょうか。

児童文学の名手が描く大人のファンタジー、ぜひ一度ご堪能ください。