【まとめ】文豪あれこれ(1)

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はじめに

近現代文学史における著名作家とその作品を紹介するページです。(随時更新)
「文豪」の基準というものが明確にあるわけではないので、すべてこちらの匙加減ではありますが。

個別記事がある作品についてはリンクを張っていますので、興味をひかれた場合はそちらもご覧いただけますと幸いです。

なお、主な参考資料は『新訂総合国語便覧』(第一学習社)および『原色シグマ新国語便覧』(文英堂)です。

また、格式張らない、バラエティに富んだエピソードを知りたいという方には、『文豪どうかしてる逸話集』をおすすめしたいと思います。作者の進士素丸氏が、パフォーマンスチーム「en Design」さんのブログ(en通信)に寄稿した記事がきっかけとなり、出版に至った本だそうです。

森 鴎外(1862-1922)

代表作:『舞姫』『高瀬舟』『阿部一族』ほか

本名・森林太郎。石見国(現在の島根県)の典医の家の生まれ。初期は浪漫主義的作風でしたが、晩年は歴史小説・史伝を多く書きました。

夏目漱石とともに語られることが多い鴎外ですが、実は年齢でも作家歴でも漱石よりだいぶ先輩だったりします。

〈作品紹介〉

『高瀬舟』(1916) 
弟殺しとして流罪になった男。しかし、その表情は妙に晴れやかで……。安楽死問題に切り込んだ短編小説。

〈エピソード〉

鴎外の子どもたちの名前は、於菟(おと)、茉莉(まり)、杏奴(あんぬ)、不律(ふりつ)、類(るい)。「海外でも通じる名前を」と考えてつけたとのことですが、今ならキラキラネームと言われそうですね。


鴎外が東京本郷駒込に建てた「観潮楼(かんちょうろう)」は、文学サロンのような役割を果たしていました。新詩社とアララギを接近させるべく歌会が開かれており、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱のほか、石川啄木、斎藤茂吉、北原白秋などもそこに加わっていました。


鴎外の墓は、東京都三鷹の禅林寺および島根県津和野の永明寺の二カ所にあります。
子どもの頃に上京して以来、終生帰郷することのなかった鴎外ですが、文豪・森鴎外としてではなく「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ」という遺言を残して亡くなりました。その希望に従い、分骨されることになったのです。

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夏目 漱石(1867-1916)

代表作:『吾輩は猫である』『草枕』『こころ』ほか

初期のユーモアあふれる低回趣味の作風から、エゴイズムに主眼を置いた作風へと大きく変化していきました。

漱石の小説は当時の作品としては非常に読みやすい文体で書かれています。現代でも広く漱石作品が親しまれている理由の一つでしょう。

〈作品紹介〉

『夢十夜』(1908) 
「こんな夢を見た。」の書き出しで知られる連作短編。潜在意識下の不安感や恐怖心をえぐり出すサスペンス性と、独特の滑稽味をあわせ持った名作です。

〈エピソード〉

「猫」の話を書き進めていた漱石。タイトルを「猫伝」にしようか、冒頭の一文からとって「吾輩は猫である」にしようか悩みます。そこで高浜虚子に相談したところ、無論後者をとる、との回答。結果どうなったかはみなさんご存知の通りです。

【参考】高浜虚子『「猫」の頃』(『漱石追想』岩波文庫)


正岡子規とは一高時代の同級生で、その後も親しい付き合いが続きました。また、「漱石」の筆名を初めて使ったのは、子規の漢詩文集『七艸集(しちそうしゅう)』に漢文で批評を寄せた時のことなんだとか。


漱石を慕う若い作家は多く、毎週木曜日に交流会が開かれており(いわゆる「木曜会」)、その中には芥川龍之介や哲学者の和辻哲郎もいました。芥川に言わせると、漱石の発する「人格的なマグネティズム」に魅かれていたのだそうです。

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幸田 露伴(1867-1947)

代表作:『風流仏』『五重塔』ほか

擬古典派の代表的作家。尾崎紅葉と同時期に活躍し、明治20年代には「紅露時代」と呼ばれる一時代を築きました。その男性的・理想主義的作風は、写実派の紅葉に対して理想派と言われます。

〈エピソード〉

1896年、森鴎外主宰の雑誌「めざまし草」の企画「三人冗語(さんにんじょうご)」に参加。鴎外・斎藤緑雨とともに、新作小説の合評をしました。

〈作品紹介〉

『観画談』
主人公は「大器晩成先生」というあだ名の苦学生。彼が奥州の古寺で遭遇した奇妙な出来事とは……?

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尾崎 紅葉(1868※-1903)

※見出しの生年は太陽暦によるもの。書籍等によっては、1867年生まれと記している場合もあります。

代表作:『多情多恨』『金色夜叉』ほか

井原西鶴の影響のもとに、擬古典主義・写実主義の作品を書きました。「硯友社(けんゆうしゃ)」や「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」の創設に携わったほか、泉鏡花をはじめとする多くの門下生を輩出したことでも知られます。

山田美妙の言文一致体(「です」体)に対し、雅俗折衷体(地の文は文語体、会話部分は口語体)を用いていましたが、後に「である」体の言文一致体を完成させました。

〈エピソード〉

弟子の鏡花とは反対に豆腐嫌いで、「豆府と言文一致は大嫌いだ。」と言い切っていました(体が弱ってからはそれなりに口にするようになったようですが)。

【参考】泉鏡花『湯どうふ』(青空文庫)

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徳田 秋声(1871-1943)

代表作:『新世帯』『黴』ほか

当初は尾崎紅葉に師事し、同じくその門下生である泉鏡花・小栗風葉・柳川春葉とあわせて「四天王」と呼ばれていました。その後、自然主義文学の路線へ転向。

〈エピソード〉

谷崎潤一郎によると、徳田秋声は「僕は実は紅葉よりも露伴を尊敬していたのだが、露伴が恐ろしかったので紅葉の門に這入ったのだ」と言っていたそうです。

【参考】谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』(『谷崎潤一郎随筆集』、岩波文庫)

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島崎 藤村(1872-1943)

代表作:『若菜集』『破戒』『夜明け前』ほか

北村透谷と雑誌「文学界」を創刊、浪漫詩人としてスタートを切るも、のち自然主義小説へ。旧家の出である父親の生き様に強い影響を受けた作品を書いています。

〈作品紹介〉

『三人の訪問者』(1919) 
藤村が40代後半の時に発表した随筆。「冬」をはじめとする擬人化された三人の客が訪ねてきたことで、「私」の先入観が取り払われていきます。

〈エピソード〉

谷崎潤一郎曰く、「肌合の相違」により藤村を好ましく思わない者が東京生まれの作家には多く、彼の知る範囲では永井荷風や芥川龍之介のほか、おそらく夏目漱石もそうだったのではないか、とのこと。中でも「最もアケスケに藤村を罵ったのは芥川」だそうです。

【参考】谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』(『谷崎潤一郎随筆集』、岩波文庫)

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泉 鏡花(1873-1939)

代表作:『高野聖』『婦系図』ほか

石川県金沢市出身。観念小説を書いた作家としても有名ですが、特筆すべきはその浪漫的・幻想的な作風です。

〈作品紹介〉

『高野聖』(1900) 
若かりし頃の旅僧が飛騨山中で出会ったのは、妖艶な美女で……。高野山の上人から「私」が聞いた怪異譚とは、いかようなものであったのか? 独特の語り口が印象的な、幽玄の世界を描いた物語です。

〈エピソード〉

父は彫金師、母は能の大鼓師の娘でした。亡き母を思慕する気持ちが強く、摩耶夫人(釈迦の生母)を信仰していた鏡花。きっかけは、子どもの頃に摩耶夫人像を祀っている寺を訪れた際、強い感銘を受けたことにありました。その「気高く、優しく、かしこくも妙に美しき御姿」は「世にも慕わしくなつかしき」ものであったといいます。

【参考】泉鏡花『一景話題』(青空文庫)


鏡花は尾崎紅葉を心底崇拝しており、「紅露」と並び称された幸田露伴に対しては敵意のようなものすら抱いていたとのこと。また、作品の中には紅葉をモデルにした登場人物(『婦系図』の真砂町の先生)もいるそうです。

【参考】谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』(『谷崎潤一郎随筆集』、岩波文庫)


京橋には、鏡花がひいきにしている鳥屋がありました。衛生家で用心深い鏡花は、十分に煮えてからでないと鍋に箸をつけません。一方、早食いの谷崎潤一郎は、生煮えでもどんどん食べてしまいます。

そこで鏡花は「君、これは僕が食べるんだからそのつもりで」と鍋の中に仕切りを置くことにしました。それでも谷崎がうっかり仕切りを越えてしまうと、鏡花は「何ともいえない困った情けない顔」をするのです。それがあまりに面白く、谷崎はたまに意地悪をし、わざと鏡花の分を食べることもあったのだとか。

【参考】谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』(同上)


能楽師の叔父の大好物であったため、家族全員が豆腐をたしなんでいました。ただ、「腐」という字面が鏡花は嫌だったようで、文章中ではいつも「豆府」と書いています。

【参考】泉鏡花『湯どうふ』(青空文庫)

〈関連サイト〉

谷崎 潤一郎(1886-1965)

代表作:『細雪』『春琴抄』ほか

耽美的な傾向を持つ作風が特徴で、悪魔主義と呼ばれることもありました。 
東京生まれですが、関東大震災後は関西に移住。日本の古典美に傾倒し、『源氏物語』の現代語訳を手がけたことでも知られています。

〈作品紹介〉

『陰翳礼讃』(1933)
日本建築等に見られる陰影の美しさ、日本人の美的感覚に主眼を置いた随筆。

〈エピソード〉

谷崎の振る舞いは夫として理想的とは言えなかったようです。
谷崎の友人でもあった佐藤春夫は、千代子夫人に同情し、彼女に好意を寄せるようになっていきました。そしてこの関係は、1930年の細君譲渡事件(小田原事件)をもって幕を下ろします。千代子夫人は谷崎と離婚し、佐藤と再婚したのです。

〈関連サイト〉

萩原 朔太郎(1886-1942)

代表作:『月に吠える』『青猫』ほか

第一詩集『月に吠える』で、近代詩人としての地位を確固たるものにしました。「日本口語詩の真の完成者」とも評されています。

〈作品紹介〉

『猫町』(1935) 
萩原朔太郎が手掛けた数少ない小説。北越地方のK温泉を訪れた際、「私」は猫の精霊が暮らす奇怪な町に迷い込むことに……。

〈エピソード〉

室生犀星とは、同じ雑誌(北原白秋編集の「朱欒(ザンボア)」)の同じ号に詩が掲載されたことが縁で生涯にわたる友人になりました。犀星曰く、朔太郎は「性格、趣味、生活、一つとして一致しないが、会へば談論風発して愉快」な友であるとのこと。

【参考】室生犀星『交友録より』(青空文庫)


音楽好きの萩原朔太郎は、マンドリンやギターの演奏が趣味でした。前橋ではマンドリンの楽団を設立。「A WEAVING GIRL(機織る乙女)」というマンドリン独唱曲を作曲したりもしています。

〈関連サイト〉

  • 前橋文学館(群馬県前橋市)「朔太郎展示室」があり、原稿等を多数収蔵しています。

菊池 寛(1888-1948)

代表作:『父帰る』『恩讐の彼方に』『真珠婦人』ほか

テーマ小説を多数書いたことで知られる、通称「文壇の大御所」。芥川賞・直木賞の創設者です。また、同じく新思潮派の芥川龍之介や久米正雄とは一高の同級生でもあります。

〈作品紹介〉

『無名作家の日記』(1918) 
主人公は作者自身、その同級生は芥川や久米をモデルとしているのではないかと言われ、話題になった作品。京都の大学に通う小説家志望の「俺」は、東京にいる同級生らを過剰なまでに意識しつつ、鬱屈とした日々を送っているのですが……。

〈関連サイト〉

夢野 久作(1889-1936)

代表作:『ドグラ・マグラ』『押絵の奇蹟』ほか

本名・杉山泰道。ペンネームの由来は、故郷・福岡の方言で夢想家を意味する「夢の久作」です。怪奇幻想趣味が色濃く出た作風が特徴。

〈作品紹介〉

『瓶詰地獄』(1928) 
三本の瓶の中から発見された手紙には、無人島で起こった悲劇が記されており……。いくつもの解釈が考えられる作品です。推理小説家による考察では、北村薫著『ミステリは万華鏡』所収のものが有名でしょうか。


『ドグラ・マグラ』(1935) 
精神病科で目を覚ました記憶喪失の「私」と、二つの事件の容疑者「呉一郎」の関係とは……。その特異な作風から、『黒死館殺人事件』『虚無への供物』と並んで日本探偵小説三大奇書に数えられています。


『何んでも無い』(1936) 
『少女地獄』の中の一篇。虚言癖を持つ看護婦「姫草ユリ子」が破滅に向かうさまを、彼女の雇い主である医師の視点から描いた作品です。

〈エピソード〉

小説家としてデビューするまでに、農園経営・禅僧・謡曲教授・新聞記者など、いくつもの仕事を経験しました。一風変わった経歴の持ち主ですね。


実父は政界の黒幕と言われ、明治~昭和期に活躍した杉山茂丸。また、長男はインドで緑化事業を行い、「緑の父(Green Father)」と呼ばれた杉山龍丸です。杉山三代、生き様は三者三様ですが、いずれも歴史に残る活動をしています。

内田 百閒(1889-1971)

代表作:『冥土』『阿房列車』『百鬼園随筆』ほか

夏目漱石の門下の一人。ユーモアや俳味に富んだ随筆で知られています。

〈作品紹介〉

『東京日記』(1938)
牛の胴体よりもっと大きな鰻(うなぎ)が、ぬるぬると電車線路を数寄屋橋の方へ伝い出した……。東京を舞台に繰り広げられる23の奇妙な物語。


『サラサーテの盤』(1948)
夫のレコードを返してほしい、そう話す亡き友人の妻。彼女は「私」が友人から借りた物を事細かく把握しており、「私」は不思議に思うのですが……。映画『ツィゴイネルワイゼン』の原作です。

〈エピソード〉

法政大学でドイツ語を指導していた百閒。教師時代の教え子らが開いてくれていた誕生パーティー「摩阿陀会(まあだかい)」にまつわるエピソードは、黒澤明監督の『まあだだよ』のモデルとなっています。

〈関連サイト〉

室生 犀星(1889-1962)

代表作:『小景異情』『愛の詩集』『抒情小曲集』ほか

「ふるさとは遠きにありて思ふもの…」の『小景異情』で知られる詩人。のち小説家に転向。

〈エピソード〉

その人生を通して、猫や犬を多数飼っていました。室生犀星記念館の展示写真の中では、仲良く火鉢にあたる犀星と愛猫ジイノの姿が人気のようです。


のちの親友・萩原朔太郎との出会いは、いまいちなものでした。トルコ帽に半コート、咥えタバコという出で立ちで迎えに来た朔太郎を見て、「第一印象は何て気障な虫酸の走る男だろうと私は身ブルイを感じた」という犀星。

一方、朔太郎は朔太郎で、「これはまた何という貧乏くさい痩犬やせいぬだろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。と、後に彼は私の印象記に書き加えていた」。彼が犀星の詩を読んでイメージしていたのは「あおじろい美少年」のような姿であったため、期待が打ち砕かれてがっくりきていたようです。

何ともひどい印象記ですが、ここから仲の良い友人になっていくのですから、人間関係というのはわからないものですね。

【参考】室生犀星『萩原朔太郎』(『現代日本文学大系47 室生犀星・萩原朔太郎集』筑摩書房)


犀星は、芥川龍之介とも交流がありました。芥川が最も感心したのは、犀星が「世間に気も使わなければ、気を使われようとも思っていない」「ちゃんと出来上った人」であった点。

「あんな珍しい男を見たことがない」と常々言っており、芥川のように「インテリ型の秀才肌」で繊細なタイプには「室生君の自然児的な野性や素朴性やは、たしかに痛快な驚異であり、英雄的にさへ見えたのだらう」と萩原朔太郎は記しています。

ところが犀星の方は「教養ある紳士」にあこがれており、「後年に於ける室生君の教養と趣味生活とは、芥川君との交際によつて学ぶ所が確かにあつた」のだそうです。互いに欠けている部分を尊重し合っていたんですね。

【参考】芥川龍之介『出来上った人―室生犀星氏―』(青空文庫)萩原朔太郎『芥川君との交際について』(青空文庫)  
※引用元の旧字体は新字体に改めました。

〈関連サイト〉

芥川 龍之介(1892-1927)

代表作:『羅生門』『薮の中』『河童』ほか

子ども時代からその秀才ぶりを発揮していました。夏目漱石の激賞を受け、デビュー時から注目を集めます。

〈作品紹介〉

『黄粱夢』(1917) 
中国の古典小説『枕中記』を題材にした掌編ですが、結末が原典とは正反対になっています。不思議な枕を使い、夢の中で一生を送った主人公が目を覚ますと……。


『枯野抄』(1918) 
松尾芭蕉の臨終に際し、さまざまな思いを巡らせる門人たちの姿を描いた作品。人間のエゴイズムを克明に描写しており、恩師・夏目漱石の死が投影されているとも言われます。なお、漱石の葬儀の様子については、『葬儀記』(青空文庫)などに描写が見られます。

〈エピソード〉

詩人の萩原朔太郎や室生犀星と交友関係がありました。犀星の目には芥川が非常にスマートな文化人に映っていたらしく、「彼の如き文明人種、彼の如き礼節ある人物を見たことが無い。」と朔太郎によく話していました。

【参考】萩原朔太郎『芥川君との交際について』(青空文庫)
※引用元の旧字体は新字体に改めました。


ほんの2、3年に過ぎなかったものの朔太郎とは深い付き合いがあり、互いの作品については言うに及ばず、幅広い分野について意見を交わしていたようです。二人はニヒリスチックな面が共通しており、芥川自身「君と僕とは、文壇でいちばんよく似た二人の詩人だ。」と語っていました。

芥川君は、自分と反対の性格で、自分の観念上にイデアしてゐるものを、具体的に表出してくれるやうな友人が欲しかつたのだ。常々菊池寛氏を敬愛して「英雄」と呼んで居たのも、やはりその反性格の為で(中略)かうした芥川君にとつて、室生犀星君や僕のやうな人間は、確かに変り種の友人だつたにちがひない。
(中略)実際言へば、芥川君の僕に対する実の興味は、やはり室生君の場合と同じく、僕の気質の中の野性的直情にあつたのだらう。

【参考】萩原朔太郎『芥川君との交際について』(青空文庫)
※引用元の旧字体は新字体に改めました。

〈関連サイト〉

  • 田端文士村記念館(東京都北区) 田端では、芥川龍之介以外にも、室生犀星、萩原朔太郎、菊池寛、堀辰雄ら多数の作家たちが一時期集まって活動をしていました。
  • 近代日本人の肖像[国立国会図書館]