谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

評論・随筆
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今回ご紹介するのは、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)。
前回の梶井基次郎作『闇の絵巻』は自然美にまつわる話が中心でしたが、こちらは主に人工美、ないし人工美と自然美の調和がテーマとなっています。

なお「陰翳」(陰影)には、(1)光が当たっていない暗い部分、(2)物事に微妙な変化や趣深さがあること、といった意味があります。また「礼讃」(礼賛)は、ほめたたえること。内容にぴったりはまったタイトルです。

内容紹介と感想

本作は、文明論にとどまらず、デザイン学の面でも興味深い作品です。また、現代においては、日本人ならではの美的感性やアイデンティティを再考する上でも、価値のある文章と言えるでしょう。

本作が発表されたのは、『春琴抄』と同じく1933年。1930年代と言えば、和洋折衷を特色とする昭和モダンの時代ですね。

しかし、筆者はこのような時流に一石を投じます。西洋文化との対比(および国内の西洋化に対する愚痴)を交えつつ、日本の伝統美、すなわち陰影が有する繊細な美のすばらしさを語ってみせるのです。

それは元々生活に密着したものでした。

美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。

ここで取り上げられている分野は、日本建築をはじめ、料理・漆器・能楽など多岐にわたっています。注目すべきは、それらが「常に陰翳を基調とし、闇と云うものと切っても切れない関係にある」という点。

筆者に言わせれば、「灯に照らされた闇」、屋内の「眼に見える闇」は、時に屋外の闇よりも凄みがあるものなのです。

思うに西洋人の云う「東洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ無気味な静かさを指すのであろう。(中略)その神秘の鍵は何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟それは陰翳の魔法であって、もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉としてその床の間はたゞの空白に帰するのである。われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽しておのずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。

夏場にこのような文章を読むと、昔ながらのお座敷が生み出す明暗や清涼感に思いをはせてしまいます。冬場なら、寂莫とした印象を受けることでしょう。筆者も墨絵にたとえていますが、これぞまさしく“わび・さび”。

日常生活や芸術に見られる陰影に着目し、それこそが美しさ・風流さの根底をなしているのだ、と捉える本作の観点は実に面白いですね。

例えば、蒔絵の黒地に金という組み合わせなども、以前から非常に好ましく思っていたのですが、具体的に言葉で説明されると、いかに絶妙なデザインであるか認識を新たにすることができました。派手なようで上品です。

また筆者は、押し寄せる近代化・西洋化の波により日本古来の美が失われつつあることを繰り返し嘆いているのですが、単なる文明批評では終わりません。

私は、われ/\が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂ののきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。

小説家としての矜持を見せて、本文を締めくくっています。

「電燈の消えた家」、非常に魅力的ですね。暗がりの中にしか見えないもの、「陰翳の世界」だからこそ見えるもの──明るすぎる世界に慣れてしまった私たちは、一度そこに立ち返ってみるべきなのかもしれません。

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