芥川龍之介『黄粱夢』

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芥川龍之介の『黄粱夢(こうりょうむ)』は、『杜子春』同様に換骨奪胎型の掌編。中国・唐代の伝奇小説『枕中記(ちんちゅうき)』を題材とし、そのエピローグ部分のみを取り上げた、とても短い作品です。

主人公は、立身出世の願望を持っている若者、盧生(ろせい)。
道士・呂翁(りょおう)の不思議な枕の力で、盧生は一生分の栄華と苦楽を夢の中で体験し、目を覚まします。現実での経過時間はといえばわずかなもので、店の主人が準備していた黄粱(オオアワの漢名)の飯もまだ炊き上がっていません。

このような『枕中記』の物語から、人生の栄華のはかなさをたとえて「邯鄲(かんたん)の夢」「邯鄲の枕」「黄粱一炊の夢」などの言葉が用いられるようになりました(邯鄲は作中に登場する地名)。

さて、「私の欲深さをたしなめていただき、ありがとうございました」と盧生が呂翁に礼を言って立ち去るのが、元のお話。非常に教訓的な締め方です。

芥川版はまさにこの部分が大きく異なります。人生の何たるかがわかったであろうと、得意げに説教を続ける呂翁に対し、盧生は次のように返すのです。

夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。

やや脇にそれますが、ここでいったん本川達雄氏の著作『ゾウの時間 ネズミの時間』にある話を少々。

動物は体のサイズや寿命の長さにかかわらず、一生の間に心臓が打つ回数は同じなのだそうです。だから、動物たちの一生が人間から見て短かったり長かったりしたとしても、一生を生き切ったという感覚は存外みんな同じなのではないか、という一節があります。

一生を生き切ったという感覚。
そう、これです。
はたから見た一生がどんなものであったとしても、当人がいかにこの感覚を得られるかが重要なのではないかと思います。呂翁の思惑どおり、人生の執着を失くして達観した生き方をしたとして、この感覚は持てるのだろうかと疑問がわきました。
平穏無事な毎日を送るのも一つの在り方ではありますが、なんといっても盧生は若いのです。先に何が待ち受けていようとも、希望を持って自分の道を選んで生きてみたいのでしょう。

『枕中記』と『黄粱夢』、どちらの人生観が受け入れやすいかは人によりけりだと思います。しかし私は、芥川版盧生の考え方が好きです。こういう反応の人間ばかりだと、呂翁先生は渋い顔をしそうですが。