ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』

ファンタジー・幻想文学
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今回はピーター・S・ビーグル作『最後のユニコーン』(1968年)をご紹介します。1982年にアニメ化もされたモダンファンタジーです。

※本記事ではハヤカワ文庫の鏡明訳を参考にしています。

あらすじ

ライラックの森に、ユニコーンが1頭住んでいた。外傷によって命を落とさない限り永遠に生き続ける、世界で最も美しい生き物である。身近に同胞はいないが、滅多につがいを作らないユニコーン族にはよくあることだ。

ある時、彼女は狩人たちの会話を盗み聞きした。ユニコーンたちはずっと以前に消えてしまった、この不思議な常春の森にユニコーンがいるとすれば、それがきっと最後のユニコーンだろう……。

不安に駆られたユニコーンは、真偽のほどを確かめるべく旅に出る決意をした。

途中出会った蝶は、とりとめもなく次のように歌う。ユニコーンたちは「赤い牡牛」に追いやられていった、と。この手がかりが意味するところとは?

内容紹介と感想

1960年代のハイファンタジー

主人公は神秘的な力を持つユニコーン。ほかにもハーピィや魔法使い、邪悪な王様がいて……と、本作はまごうことなきファンタジーです。

一方で、本作には「ファンタジー」の一言では済ませられない側面もあります。

それは、叙情的でありながら根底の部分にリアリズムが感じられる、痛みを伴う物語であるという点です。旅立ちのきっかけからして悲壮感に満ちていますしね。

カウンター・カルチャーなどが盛んであった1960年代の時代背景が作風にも影響しているのでしょうか?

本物と幻影

同族の不在は世の中にも影響を及ぼしていました。人間たちが昔のようにユニコーンに敬意を表してくれないどころか、彼女をただの白い馬だと認識しているのです。

幻獣(ほぼ偽物)を見世物にする〈ミッドナイト・カーニヴァル〉に捕らわれた際は一応ユニコーン扱いされていましたが、それは所詮まやかし。

魔法使いのフォーチュナ婆さんの術でわかりやすい記号を付与されている状態であって、見物客は彼女の真の姿を見てユニコーンだと思ったわけではありませんでした。

本物よりも偽物にリアリティを感じるとは、これいかに。見たいものを見、信じたいものを信じるのだから、人間の目も頭もわりといい加減です。

旅の仲間たち

一般的には味方がいると頼もしいもの。もっとも本作の場合は、当のユニコーンが連れを必要としていないため、仕方なしに同行させてあげている状態です。

魔術師シュメンドリック

かつて大魔法使い二コスに師事していたにもかかわらず、半人前のシュメンドリック。

驚くべきことに、ニコスは“ここまで芽が出ないなんて逆に規格外の大物では?”と考えたようです。将来の可能性にかけ、シュメンドリックは「真の魔法使い」になる日まで不死の体にされています。

魔力がいまだに不安定なせいで、赤い牡牛から守るためにユニコーンを人間に変身させた際も、なかなか元に戻せず危機的状況を招きました。

しかし、最終局面でついに覚醒。ここに至って彼はようやく本当の人生を生きられるようになります。

シュメンドリックは、空っぽだからこそ十二分にものを満たすことができる大器でもあった、という点が印象深いキャラクターです。結局のところ、二コスの見立ては正しかったわけですね。

モリー・グルー

くたびれた中年女性モリーは、荒くれ者の親玉キャプテン・カリーと森で暮らしていました。瞬時にユニコーンを識別できた数少ない人間のひとりです。

モリ―にもユニコーンの出現を夢見る少女時代があったはず。それは、なぜこのタイミングで……という反応からもよくわかります。

ユニコーンは来てほしいときに来てくれなかった。それでも、モリーはユニコーンとともに行こうと決めました。そんな彼女は、旅をしながらどんどん若返っていきます。

後になってチャンスがめぐってきた場合、今さらだと諦めてしまう人も多いことでしょう。新しい場所に飛び出していけたモリーの行動力はすごいと思います。

ハガード王の国

赤い牡牛とハガード王に関する噂を知ったユニコーンは、海辺にある王城を目指します。

ハグスゲイトの住民たち

国の大部分は不毛の地と化していますが、ハグスゲイトの街だけは裕福です。しかし住民たちの表情は、立派な身なりに反して貧しい者・飢えた者のそれでした。

実は、ハガード王の繁栄と没落はハグスゲイトのそれとリンクしています。

住人たちの懸念事項は、魔女によってかけられた呪い。リーア王子(拾われた子で王と血縁関係がない)こそが破滅をもたらす予言の子ではないかと戦々恐々なのです。

恵まれている今を謳歌できず、脅えて過ごしているというのは大変もったいないですね。

先のことを考えて不安になる、というネガティブ思考に陥りがちなのは私も同様なので、ちょっと反省。ケセラセラ(スペイン語で「なるようになるさ」の意)のスタンスでいるほうがよいのかもしれません。

強欲なハガード王

魔女が建てたという呪われた城に住む領主。その治世は50年に及び、年齢は少なくとも70~80歳。

このハガード王、冷酷な悪役には違いないのですが、憎みきれないキャラクターです。不幸で空虚で孤独で、楽しみが持続せず、常に哀愁を帯びているさまは同情を誘います。

英語のhaggardの意味は「やつれた」「(鷹が)飼いならされていない、野生の」など。その名の通り、彼の心は自国同様に荒れはてており、誰にも開かれていません。

「わしが拾い上げると、どんなものでも、死んでしまう」と吐露するハガード王。ただ、そんな彼でも「喜び」に浸ることができる時間があって……。

英雄となったリーア王子

元々は良くも悪くも普通の若者っぽさがあったリーア王子。努力はしていたそうですが、父王からは特に期待されていなかったとのこと。しかし、アマルシア姫が城に来てから奮起し、竜を退治したりする英雄になります。

本作では、おとぎ話のお約束などに関する発言が散見されますが、その中でも英雄論は興味深い内容ばかりです。

一度習慣化してしまうと「英雄」をやめるのは難しい。英雄は秩序を熟知している。偉大な英雄は大いなる悲しみと重荷を必要とする。そしてユニコーンを救えるのも英雄だけ。

本編終了後のリーアにも、国を豊かにし、次々に王女様を助けるという偉大な「王」や「英雄」としての役が待ち受けているのです。そして、どんなに困難があっても、彼は必ずや使命を全うするでしょう。

本作の登場人物は、自身の立ち位置を把握しているがゆえの苦しみを背負っています。

目の見えない赤い牡牛

初めての恐怖心

ユニコーン曰く、赤い牡牛は「終わりもなければ、はじめもない」強さを持つ上に、彼女より長く生きている謎めいたキャラクター。ユニコーンですら思わず逃げ出す特異な存在、根源的恐怖です。

ユニコーンは今まで恐れというものを知りませんでした。というのも、竜に殺されることはありえても、自分が何者であるかを忘れることはありえない、と考えていたからです。

しかし、赤い牡牛に遭遇したとき、彼女はアイデンティティを揺るがされる恐怖を覚えました。ユニコーンにとって、自分が自分でいられなくなることは、死よりも恐ろしいことなのです。

王と牡牛

赤い牡牛の目的は、ユニコーンたちの命を奪うことではなく、ハガード王のために囲い込むこと。シュメンドリックの見立てでは、赤い牡牛は戦うのではなく「征服」するのです。

さらにハガード王によると、恐れを知らない者であれば誰にでも仕えるそう。

何らかのメタファーのように感じますが、最後まで正体は判然としません。どうとらえるかは人によって意見が割れそうなところですね。

個人的には、ピカソが繰り返しモチーフに使っている牡牛を連想しました。代表作『ゲルニカ』に描かれている牡牛も、暴力性のシンボルであるとか、ピカソ自身の投影であるとか、さまざまに解釈されています。

白い髪のアマルシア姫

王子が一目ぼれするほど美しく、生まれたてのような初々しい雰囲気の乙女。その正体は魔法で人間にされたユニコーンです。

変身直後、彼女はこの状況に嫌悪感を示していました。先述したような価値観の持ち主ですから、無理もないですね。

ところが時が経つにつれ、うわべだけのはずだった「アマルシア姫」が実体化し、二重の存在になっていきます。外見や周囲からの扱いに中身が引っ張られた恰好でしょうか。

さらに、リーア王子の歌に心動かされて以降、城に来る前の記憶が完全に失われてしまいました。

ちなみに私は、他のユニコーンも人間に変えられているのではないか?と予想したのですが、大はずれ。彼らの実際の所在については、魔女の呪いの言葉に伏線があります。

ユニコーン再び、そして別れ

恋人の本性がユニコーンだろうが化け物であろうが「ぼくは、ぼくの愛するものを、愛す」と言い切ったリーア王子はかっこいい。

再び赤い牡牛と対峙したとき、ユニコーンの内面は大きく変わっていました。死にゆく運命の人間、アマルシア姫として過ごした時間が、必死に物事に立ち向かうことを可能にしたのかもしれません。

同時に彼女は「後悔することのできるユニコーン」になってしまいました。それはきっと最初で、そしておそらく最後のユニコーンでしょう。

かつてのユニコーンの言動には、冷たく思えるところもありました。しかし、こうなってみて初めて、不死の存在にとっては、人間のような激しい感情は重荷なのだと気がつきました。

それでもユニコーンがシュメンドリックに感謝の意を述べた、という事実は特筆すべき点です。恐怖や後悔だけでなく愛を知った現在の境遇を、単純に不幸だとは考えていないとわかります。

おわりに

全体を通してみて思うのは、心に埋められない何かを抱えているキャラクターばかり出てきたな、ということです。

代表的なのは虚無感に苛まれる老王ハガード。そんな彼でも、ユニコーンたちを見るときだけは「森の朝」を感じるそうですが、その語り口には悲壮感が漂っています。

しかし彼は最期に笑ってみせました。一方で悠久の時を生きるユニコーンは、死という形で物語を終わらせることもできません。

ビターエンドの『最後のユニコーン』。ひと味違ったファンタジーを読みたい方におすすめです。