フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』

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『トムは真夜中の庭で』(原題:Tom’s Midnight Garden)は、イギリスの作家アン・フィリパ・ピアスの代表作。「時」をテーマにした作品で、児童文学賞の権威であるカーネギー賞を受賞しています。

あらすじ

弟がはしかにかかったため、おば夫婦のもとに預けられたトム。しばらくは外出禁止の上、狭苦しいアパート生活です。

何だか夜もよく眠れません。そんな時、ホールの大時計が13時を告げました。大家さんが大切にしているという年代物の古時計です。不審に思い、1階に降りたトムは、裏口の向こうに美しい庭園が広がっているのを発見します。

存在しないはずの時間に、存在しないはずの庭。そこでトムはヴィクトリア時代の少女ハティと知り合います。

内容紹介と感想

退屈な夏休み

この夏、トムはご機嫌ななめでした。自宅を離れたことで、夏休みの計画が台無しになってしまったからです。しかも当面は外出禁止。遊び盛りの少年にとって、この状況がどれほど苦痛なものか、みなさんにも容易に想像できることでしょう。

一方、幼くして両親を亡くした少女ハティは、一人ぼっちでした。いとこは年上の男の子ばかりで、ろくにハティの相手をしてくれません。その上、おばであるメルバン夫人には厄介者扱いされています。

友達を求めるトムとハティ。孤独な二人が出会ったのは、必然だったのかもしれません。

不思議な少女

服装等の情報を考慮し、ハティはヴィクトリア時代の初期、つまり百年以上前に生きていた人間だろう、とトムはあたりをつけます。

現在のアパートは、旧メルバン家を改築したものです。昔住んでいた人々について、大家のバーソロミューさんなら何か知っているのではないか? トムはそんな風に考えたのですが、ここに管理人として住むようになった時点で彼女は未亡人であったと知り、がっかりします。情報は期待できそうにありません。

謎は深まるばかり。トムはハティの正体を幽霊だと思っていますが、はたして……?

もうひとつの居場所

どうやらトムの姿はハティ以外には見えていないようで、探索も自由自在です。トムは毎晩庭へと向かい、ハティに弓矢や木の家の作り方を教えたりするなど、この世界での遊びに熱中します。

昼間の生活よりも、真夜中の秘密の時間を楽しみにするようになったトム。ハティとの交流には心温まりますが、この手の日常と非日常が交互に描写される形式の物語において、別世界の方に主人公が魅かれすぎてしまうと、少し心配になってしまう自分もいます。

アパート滞在を引き延ばしたトムが離れがたいと思っているのは、おばさんたちではなく、あくまで庭。色々と気を遣ってくれているおばさん・おじさんが不憫に思えてきます。大人が良かれと思ってやっていることが、子どもにとってはちっとも嬉しくない、というのは得てしてありがちではありますが……。

やはり子どもには子どもだけの世界があるのですね。トムとハティ、二人の王国に大きく関わってくる大人は園丁のアベルくらいです。

もう時間がない

奇妙なことに、トムが庭を訪れるとき、季節や時間帯は一定ではありませんでした。場合によっては、さらに過去へと時間をさかのぼることさえあったのです。

とは言え、基本的には時系列に沿っているようで、ハティのいとこのジェームズがいつの間にか立派な若者になっていることに気づき、トムはびっくりします。トムの視点では何週間かの間の出来事にすぎなかったのに、庭園では数年の月日が流れていたのです。

同じくタイムトラベルを扱った児童文学『時の旅人』のヒロインと比べて、トムが鈍感なのは、少女と少年の違いか、単なる個人差なのか……。まあ、両方でしょうね。

ここが物語のターニングポイントとなります。以前からハティに同情していたジェームズは、ハティは庭に引きこもってばかりいるのではなく、もっと外の世界を知るべきだ、と主張するのでした。

冬の訪れと少女時代の終わり

次に庭へ行くと、そこは一面の銀世界。成長したハティはトムを歓迎してくれましたが、トムが薄くなった、前ほどはっきり見えなくなった、と言います。

これはどうしたことでしょう。ハティが大人になりつつあるからでしょうか。それとも、交友関係が広がったことで、相対的にトムの存在感が薄まったからでしょうか。

ジェームズのおかげで、ハティは以前よりずっと社交的になったようです。いつも一緒に過ごしていた仲良しの友達が、自分の知らない一面を持つようになるなんて、置いてきぼりを食ったようで寂しい気持ちになりますね。

ただ、一人遊びの癖は完全には抜けていません。後にハティは、凍結した川の上をスケートで大移動する一人旅(厳密に言えばトムとの二人旅ですが)を試みます。三つ子の魂百まで、ということですかね。

作者によると、「川というのは、人生の象徴であって、たえず流れ、人間をはこびさってゆく」ものなのだそう。『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という有名な一文を思わせる考え方です。

結局、これがトムにとって最後の13時の冒険となってしまいました。ハティの時間の流れは止まりません。スケート旅行の帰り道、偶然知人と出会ったハティは、彼との会話に気をとられ、そして……。

再び重なり合う時間

かわらないものなんて、なにひとつないものね。わたしたちの思い出のほかには。

恋をして、結婚をして、子どもを育て、戦争を経験し――あわただしい毎日を送る中、少女時代に遊んだ相手のことを振り返る機会は、ハティにはなかったでしょう。それでも、トムとの思い出は、ハティの一部として確かに生き続けていたのだろうと思います。

「何年も前の出来事なのに、まるで昨日のことのように感じる」、逆に「つい最近の話なのに、遠い昔のことのようだ」、どちらもよく耳にする表現ですね。時間というのは、単純ではありません。時計やカレンダーが示すものがすべてではないのです。

だから、トムとハティの再会も、昨日の今日であると同時に何十年ぶりでもある、と言えるのではないでしょうか。ハティを遠くへ運んでいってしまった川が、再びトムの川と合流し、物語は幕を下ろします。

おわりに―子どもたちの庭

Kindergarten(日本では幼稚園と訳される)という言葉があります。おおもとの意味は「子どもたちの庭」で、ドイツの教育学者フレーベルの造語。幼児教育施設は、植物が育つ庭のように、子どもたちが自由に育つ場であれ、ということを意図したネーミングなのだそうです。ここでの先生は、優れた園丁のごとき存在であるべきだ、と。

トムとハティに関して言えば、「真夜中の庭」がまさにKindergartenであったのかもしれません。園丁のアベルが大人でありながら特殊な立ち位置にいたのは、フレーベル教育論を踏まえると少し面白いな、と思います。もちろん、作者にそういう意図はなかったでしょうが。

本作では、子どもの国からの旅立ちと帰還が描かれています。ハティの心の変遷を、トムもいつの日か身をもって感じる時が来ることでしょう。時の流れが現実の庭を見る影もないものにしたとしても、心の中の「真夜中の庭」は、決して失われることはありません。