概要
『見えない都市』(原題:Le città invisibili) は、イタリアの作家イタロ・カルヴィーノの作品です。
空想都市の様相が一人称形式で語られ、各章の最初と最後にマルコ・ポーロとフビライ汗の会話が挿入されるという、『千夜一夜物語』を思わせる構成をとっています。
内容については、「都市と記憶」「都市と欲望」など、11のテーマに沿って書かれているのが特徴的。「訳者あとがき」で米川良夫氏も触れていますが、これらのテーマは一定の法則に従って各章に配置されているようです。
※少々わかりにくいかもしれませんが、章別・テーマ別の一覧表を作ってみました。何となくパターンが見えてくるのではないでしょうか。
全9章、登場する都市は55に及びます。しかし、1つの都市に割かれているページ数は3ページ前後ですので、そんなに長い小説ではありません。
とは言うものの、この詩的・寓話的な物語を読むのには時間がかかりました。たとえるなら、おいしいけれど味が濃くて一度にたくさん食べられない料理。好みは分かれるけれど味わい深い、そんな作品です。
内容紹介と感想
マルコ・ポーロとフビライ汗の対話
語る者と聞く者
「他の都市の長所を知るためには、言外には明らかにされぬ最初の都市から出発しなければなりません。私にとっては、それはヴェネツィアでございます。」
マルコ・ポーロ(1254頃~1324)は『東方見聞録』でおなじみのヴェネツィアの商人・旅行家。彼が元朝に滞在したのは16~17年ほど(1290年まで)で、当時は皇帝フビライ(1215~1294)の治世下でした。
調べてみると、メインキャラクターの2人には思いのほか年の差があるんですね。作者の分身に近いのはポーロの方なのでしょうが、私はフビライの人物造形に興味を引かれました。
広大な領土を有しているのにもかかわらず、いや、それゆえにアンニュイな雰囲気を漂わせています。帝国が自らの重みに耐えられなくなっていること、腐敗が進み、崩壊過程にあることを敏感に感じ取っているのです。
ポーロとフビライは哲学的な問答を交わし、奇妙なコミュニケーションを繰り広げます。脳内で議論が完結することさえあり、その様は互いに先を読み合う将棋の対局のよう。
「しかし私の話に耳傾けるものは、自分の待ち望んでいる言葉のみを受け止めるのでございます。(中略)物語を支配するものは声ではございません、耳でございます。」
これはひとつの真理ですね。私たちは都合よく聞きたいことだけを聞き、見たいものだけを見ているのに、世界をありのままに認識しているつもりでいることも多いのでしょう。
異郷という鏡は何を映すか
時には、おまえの報告はどれも似たり寄ったりではないか、作り話ではないか、とフビライからツッコミが入ることも。
しかし当然のことながら、フビライが領土内の都市すべてをその目で確かめることは不可能。そういった意味で、それらの諸都市はポーロの語る架空の「見えない都市」とどれほどの違いがあるというのでしょうか。
都市の実在性は、この際さしたる問題ではありません。実物の都市と異なっていても、彼が述べる都市像は本質を捉えているように思われるからです。
新しい都市につくたびに旅人は、すでにあったことさえ忘れていた自分の過去をまた一つ再発見する。もはや自分ではなくなっている、あるいはもう自分の所有ではなくなっているものの違和感が、所有されざる異郷の土地の入口で旅人を待ち受けている。
ひょっとすると、『見えない都市』の中であなたも知っている都市を再発見するかもしれません。
空想都市をめぐる
以下では、個人的に印象に残った都市を取り上げています。
アナスタジア(都市と欲望2):欲望の奴隷と化した都市
多種多様な宝石類を商っているアナスタジアは、日々欲望が呼び起こされる都市。
下記はゼノビアの話(精緻な都市2)からの引用ですが、「欲望」は本作におけるキーワードのひとつとなっています。
都市を分けて意味があるのは(中略)長い歳月と変容を通じながら、なおもろもろの欲望におのれの形を与え続ける都市と、他方は、欲望がついには都市そのものを抹殺するに至るか、あるいは都市に欲望が抹殺されてしまうかする都市の、この二種類なのでございます。
欲望、それは都市が発達(あるいは破滅)するうえである種欠かせないもの。
本作では、白亜の迷宮都市ツォベイデ(都市と欲望5)などが象徴的ですね。夢の女を追いかけて集まった男たちが夢そっくりに、それでいて女に逃げられないよう壁などを増やしてつくった街です。完全に欲望と都市の成り立ちが直結しています。
それにしても、欲望とは内から自然に芽生えるものなのか、それとも広告等の外部要因によってもたらされるものなのか。もしかすると、アナスタジアのように欲望に包囲され、その奴隷となっているのが実態なのかもしれません。
フェドーラ(都市と欲望4):並行宇宙を包含する都市
単純にイメージがきれいで好きな都市です。
灰色の石の都フェドーラの中心にある宮殿(博物館)には、部屋ごとにガラスの球が設置されています。各球の中に見える空色の都はフェドーラの雛形、もしかしたらこうなっていたかもしれないというパラレルワールドです。
好みのガラス球を眺めて理想の生活に思いを馳せる、というのが住民たちの楽しみ方。こんな観光スポットがあったら、私も足しげく通ってしまいそう。
ただ、その行為には空しさも付いて回りますし、ポーロに言わせれば大フェドーラも無数の小フェドーラも「等しく単なる虚構にすぎない」らしいのですが……。
オッタヴィア(精緻な都市5):蜘蛛の巣都市
オッタヴィアは、崖と崖の間に宙吊りになっている蜘蛛の巣状の都市。
そのような場所に居を構えているのにもかかかわらず、オッタヴィア市民は自分たちの生活に大して不安を感じていないのだそう。なぜなら「時が来ればこの網も保たないことを承知している」から。
漠然とした不安に悩まされてばかりいる私は、このスタンスにうらやましささえ感じます。できることなら、彼らのように心穏やかでありたいものです。
エウトロピア(都市と交易3):集合体としての都市
エウトロピアは、高原に点在する都市の集合体。住民はストレスがたまると全員で隣の都市に引っ越し、新しい配役(新しい仕事・家族・隣人関係等)を得るのです。
いわゆる「人間関係リセット症候群」の人にとっては、本当にあったらありがたいシステムでしょうね。
しかし、いくら配役が変わろうと、総体としてのエウトロピアは不変なのです。職場などに置き換えてみても、誰かが辞めようが新しく入ろうが、会社全体にとっては些末な問題であるケースも多いのだろうな……なんて考えてしまいます。
レアンドラ(都市と名前2):小さな神々が暮らす都市
レアンドラの家々には小さな2種類の守護神が住んでいます。一方は戸口や傘立てなどにいて、人間の家族が引っ越す際はいっしょにくっついていくペナーティ。もう一方は主に台所にいて、同じ場所に留まり続けるラーリです。
ペナーティとラーリは、いっしょに散歩したり雑談をしたりする場合もあるそう。小さな神様たちが並んでちょこちょこ歩いている姿を想像すると、かわいらしい感じがしますね。
そのようにほほえましい光景も見られる彼らですが、どちらも自分たちこそがレアンドラという都市の本質であると主張して譲りません。これは人に重きを置くか、場に重きを置くか、そういう話になってくるのでしょうか。
神々の世間話に仮託した都市の描写はまるでおとぎ話ですが、「国」の定義にも関わりそうで、提示されているテーマは存外難しいように思います。
アデルマ(都市と死者2):死者の顔を見出す都市
誰も彼もが亡くなった知人そっくりに見える都市アデルマ。怪談じみた展開に背筋がぞくりとします。
私は思いました──「知り合った人のなかでも死んだ人のほうが生きている人より多くなる、そんな人生の境目にやって来たのだ。すると記憶はほかの顔つき、ほかの表情を見出すことを拒否するのだ。新たに出会うあらゆる顔の上に、記憶がふるい形を刻みつけ、その一つ一つにたいしてもっとも似合いの仮面を見つけ出してやるのだ」と。
しかし視点を変えると、「私」の顔を見た他者も同時に故人を想起している、ということに。それはそれですごく怖い。
この話は、人生の節目ごとに読み返すとまた違った感想になりそうです。
エウサピア(都市と死者3):霊苑都市
死後の不安を取り除きたいエウサピアの人々は、地上の都市そっくりの模型を地下に用意しています。始皇帝陵・兵馬俑坑をはるかに上回るレベルでの事業ですね。
生前の反省をもとに死者たちは霊苑都市に改良を加え、それを地上のエウサピアが模倣する。そんなことが続いた結果、今やどちらが生者でどちらが死者かわからない、という状況になってしまいました。
一転して生者が死者に支配されるというのは皮肉な話ですが、われわれの人生にもそのような面がないとは言い切れません。
さらに三重都市ラウドミア(都市と死者5)に至っては、死者どころか、まだ生まれ来ぬ人のためのスペースまで設けられているのです。
生者は自分の問いに対する答えを求めて並立する他の2つの都市へ出かけていきます。しかし、死者たちが多少は安心感を与えてくれるのに対し、まだ生まれ来ぬ者たちがよこすのは不安の種ばかりなんだとか。
先人(過去)にも後人(未来)にも束縛されているとは、生者のなんと不自由なことか。
レオーニア(連続都市1):大量廃棄都市
一番リアリティが感じられる都市ではないでしょうか。
レオーニアでは、大量生産・大量消費・大量廃棄が日々繰り返されています。しかも製品がどんどん頑丈になり、ごみが風化せずいつまでも残るようになりつつある、という話は現実で耳にする環境問題そのものです。
ごみの山はレオーニアを取り囲むように外へ外へ広がっていますが、それは他の都市でも同じ。いずれ崩壊を迎えるだろう、と述べられています。
このように目に見える範囲をきれいなもので固めても、問題を先送りにしているだけで、緩やかに自分の首を絞めていっているのと変わらないのでしょうね。
プロコピア(連続都市3):窓辺の顔が増殖していく都市
プロコピアの同じ宿の同じ部屋に泊まると、年々窓から見えるニコニコ顔の人間が増えていきます。今年などは、ついに窓一面を顔が埋め尽くし、部屋には26人の宿泊客がすし詰めになっているというありさま。
頭に思い描くだけなら何だか面白い状況のような気もしますが、本当なら笑い事ではすまない……というか、日本では多くの人がラッシュ時の満員電車で体験済み?
ある都市の人口過密を、小さい規模でわかりやすく可視化すると、この宿屋のような現象が生じているということになるのかもしれません。
ただ不幸中の幸いは、プロコピアの住人が親切な人ばかりであるということ。この締め方が妙に気に入っています。
ベレニーチェ(隠れた都市5):不公平な都市
正義の人々が暮らす都市ベレニーチェには、不正や悪の芽が隠されているのだそうです。
正義の側に立っている──しかもその正義そのものよりもさらに正しいと自称する他の大勢の人々にもましてなお正しいのだ──という自信と誇りとが怨み、対抗心、蔑みとなって発酵いたしておりますし、不正の輩に酬いんものという自然な望みは彼らに取って替って彼らとまた同じことをしてやろうぞという偏執に色染められております。
そういえば「あなたたちの中で罪を犯したことがない者だけが石を投げなさい」という聖書の言葉に関して、「(当時の時代背景等はひとまず置いておいて、現代であれば)仮にこれまでに罪を犯したことがなかったとしても、石を投げるという行為そのものが現在進行形で罪になりはしないのだろうか」と思ったことがあります。
古今東西、正義感の暴走というのは現実にも見られ、昨今の例をあげるなら、過激な「ネットリンチ」の話を聞いて暗い気持ちになることもしばしばです。
地獄が存在するとすれば、この世がまさにそうだ──直後にそういった主旨のポーロらの会話があることとあわせると、ベレニーチェという都市を最後にもってきた作者の意図を考えずにはいられません。
おわりに
「恐らく、ヴェネツィアを、もしもお話し申し上げますならば、一遍に失うことになるのを私は恐れているのでございましょう。それとも、他の都市のことを申し上げながら、私はすでに少しずつ、故国の都市を失っているのかもしれません。」
本作を読んでいると、語ることと旅することは似ているのではないか、という気がしてきました。その過程では必ずしも何かが得られるとは限らず、何かを失う場合や大きな痛みを伴う場合もあるのでしょう。
しかし、『見えない都市』はただ悲観論に終始するわけではありません。今の世の中は地獄だ、と言うだけなら簡単です。その地獄のただなかで私たちはどうあるべきか、というところまで見据えているのが本書の良さであると思います。