今回ご紹介するのは江戸川乱歩の『人間椅子』ほか、読者が冷や汗をかくほどに刺激的な小説の数々。
選定に異を唱えたい方もいらっしゃるでしょうが、あくまでも主観的意見ということでご容赦くださいませ。
江戸川乱歩『人間椅子』
人気作家である佳子に届いたファンレターの山。その中にまぎれていた「奥様」という呼びかけで始まる長文は、椅子職人の男が犯した罪を告白する内容でした。
椅子の中の恋(!)それがまあ、どんなに不可思議な、陶酔的な魅力を持つか、実際に椅子の中へ這入って見た人でなくては、分るものではありません。それは、ただ、触覚と、聴覚と、そして僅の嗅覚のみの恋でございます。暗闇の世界の恋でございます。
容姿にコンプレックスを抱えた男には、もともと妄想癖がありました。ある日、大型のアームチェアを作ったときに「悪魔の囁き」が聞こえてきます。椅子に細工をして中に身を隠し、その椅子にどこまでもついていこう、と。
やがて男は、椅子を購入した女性(の肉体)に恋焦がれるようになります。そして、その夫人というのが……。
本作は唯一無二の読後感を味わえる小説かもしれません。気持ち悪さが頂点に達したところで一気に脱力するという、稀有な体験をしました。
ファンが書いた創作であったことが最後に明かされ、一安心。けれど、しばらくして「ここまで状況が一致しているということは、もしかしたらもしかするのでは?」と、また怖くなってきました。
梶井基次郎『桜の樹の下には』
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。
冒頭の一文が有名な掌編です。私は、同作者の『檸檬』の雰囲気を期待して読んで面食らってしまいました。
同じように鬱屈した感情が描かれていても、『檸檬』のラストには爽快感があります。しかし『桜の~』の場合は、問いただすような口調のせいもあってか、薄気味悪さが先立ちました。
とはいえ、いずれの作品においても物語の根底にあるものは生と死。そう違いはないのでしょう。短い文章ながらも美意識の転換を迫られている気分になります。
この話を聞かされている「おまえ」の心中やいかに。
坂口安吾『桜の森の満開の下』
桜つながりでもう一篇。鈴鹿峠に住みついた山賊と、彼がさらってきたわがままな美女のお話。
山賊が8人目の女房にしたその女には、どことなく変なところがありました。残り7人の女房を見た途端、刀で斬れと言い出したのです。「桜の森の満開の下」を通るときの感覚に似た、言い知れぬ不安に襲われる山賊。
しばらく都暮らしが続いたのち、2人は峠に戻ろうとしますが、間が悪いことに桜の季節で……。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。
山賊の喪失感、幻想的な花吹雪、すべてが露と消えるかのようなラスト。こうした描写に感銘を受ける方もいるであろう物語終盤、私は正直それどころではありませんでした。
都で女がしていた「首遊び」による精神的ダメージが大きすぎて、心を動かされるだけの余裕がもはや残っていなかったのです。悲嘆にくれる山賊に対しても「はあ、そうですか……」程度の気持ちしかわいてこなくて困りました。
サディスティックかつグロテスクな要素が目立つため、自分の中でいまいちうまく消化できない作品になってしまいました。
安部公房『砂の女』『箱男』
2024年で生誕100年。前衛的すぎて私の中で「コアなファンがいる反面、世間受けはしない」イメージがある作家です。
『砂の女』
男は、砂丘に昆虫採集に出かけたはずでした。ところが実際に起きたことはといえば、自身が蟻地獄のごとき砂穴に囚われ、上から地元住民たちに観察されるという事態……。
「わけのわからない話なんだろうなあ」と思って読んだら、意外とわけわかる話だった作品。
砂穴の底で一人暮らしをする女。彼女との奇妙な共同生活。家が埋もれないように砂をかき出す毎日。逃亡を企てる男。どう考えても非日常的としかいえない異様なシチュエーションです。
しかし、そんな日々もずっと続けば、いつしか日常へと変わっていく不思議。「砂」に仮託して人間や日常、自由とは何かについて考えさせられる小説です。
『箱男』
「わけのわからない話なんだろうなあ」と思って読んだら、やっぱりわけがわからなかった作品。
いや、最初のうちはまだ風刺として理解できる気がしていたんですよ。しかし、途中からは完全においてけぼり。
「いろいろな箱男のエピソードを集めたオムニバス形式であれば、最後まで面白く読めたのではないか」と思うと同時に、「箱男の生態(?)に興味を持つということは、自分にも箱男的のぞき趣味の嗜好があるんじゃ……」という気づきもあり、少しへこみました。
ダンボール箱をかぶり、自分の姿は相手に見せず一方的に相手を見る「箱男」。この匿名性を実現する「箱」の役割の一端を担っているのは、現代ではパソコンやスマートフォンかもしれませんね。
なお2024年8月、『箱男 The Box Man』という題で実写映画が公開されました。
太宰治『駈込み訴え』
一言でいえば「可愛さ余って憎さが百倍」というお話。
申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
タイトルが示す通り、「私」がものすごい勢いで訴えをまくし立てていきます。アンビバレントな感情のジェットコースター状態。
師である「あの人」への思いは、プラスとマイナスを行きつ戻りつし、ついにはマイナスに振り切れて、というより混乱のはてに壊れてしまいます。
この「私」が何者であるかについては途中で察しがつくでしょうが、それでもラストシーンにはぞくりとさせられること間違いなし。
「作者である太宰治が志賀直哉や川端康成に対して抱いていた感情は、もしかするとこんな具合だったのかも」なんて思いました。
芥川龍之介『河童』『歯車』
芥川龍之介の晩年の代表作である『河童』や『歯車』は、当時の作者のメンタルを反映してか非常に厭世的で、不安をあおられる作風です。
『河童』
これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。
河童の国へ行ったことがあるという男の物語。河童文化の中でとりわけ印象深かったのは、お産のくだりです。
お腹にいる赤ちゃんに、本当にこの世に生まれてきたいかどうかを尋ねる親河童。お父さんの病気が遺伝してもかなわないし……とかなんとか言って、生まれるのをやめてしまった子がいるのが衝撃的でした。
不可思議な文明を持つ架空の国を通して現実社会を風刺しているさまは、『ガリバー旅行記』のようでもありますね。
『歯車』
ひたすら死に向かっていく「僕」(≒作者)の物語。「僕」が目にする「絶えずまわっている半透明の歯車」は、現実にある症状としては閃輝暗点(せんきあんてん)に相当するのではないかと考えられているようです。
作中では歯車以外にも「レエン・コオトを着た幽霊」など、序盤からどことなく不気味なモチーフの登場が続きます。「僕」の精神状態のあおりを食って、私まで魂を吸い取られそうになりました。
先に挙げた乱歩作品などでは、一定の意図のもとに病的な登場人物を配置しているわけですが、それとはまた違った不快感があり、心をかき乱されます。本作の内容が作者自身の心象と直結しているためでしょう。
読破した直後に「取り急ぎ癒しと笑いの成分を摂取せねば……!」と思った記憶があります。読んだときのコンディションが悪ければ、数日尾を引いたかもしれません。
おわりに
こうして複数のお話を並べてみると、こちらに語りかけてくるようなタイプの物語は没入感も高く、ぞわぞわするケースが多い気がしますね。
この手の小説にあえて挑戦してみるというのも一興ではないでしょうか。背筋が寒くなって残暑も吹き飛ぶかも?