北杜夫『楡家の人びと』

近現代文学
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『楡家の人びと』(1964年)は、『どくとるマンボウ航海記』『夜と霧の隅で』などで知られる北杜夫の代表作のひとつです。

概要

ある病院と一族の栄枯盛衰

本作では、精神疾患を専門とする病院の経営者一族を中心とした群像劇が描かれています。

楡家の人々は、そっくりそのままではない(実物とギャップがある登場人物も多い)ものの、なんと作者自身の身内=斎藤家がモチーフ。執筆にあたってはトーマス・マン作『ブッデンブローク家の人びと』に大きな影響を受けたそうです。

また、各部の終わりには次のように歴史のターニングポイントが訪れます。

  • 【第1部】大正最後の年、初代院長・基一郎が急死する(1926年)まで。青山の大病院における悲喜こもごも。火の不始末のために病院が全焼してしまう。
  • 【第2部】太平洋戦争開戦(1941年)まで。婿養子の徹吉が2代目院長に就任。規模を縮小した青山の病院は分院、新設された松原(世田谷)の病院が本院となる。
  • 【第3部】終戦の翌年(1946年)まで。出征、疎開等で関係者がちりぢりになっていく。東京大空襲で大きな被害が出る。

こうした時代背景も作品を語るうえで欠かせない要素です。

これぞ小説

『楡家の人びと』は、三島由紀夫をして「戦後に書かれたもっとも重要な小説の一つ」「真に市民的な作品」などといわしめた作品です。

あらゆるぎょうが具体的なイメージによって堅固に裏打ちされ、ユーモアに富み、追憶の中からすさまじい現実が徐々に立上るこの小説は、終始楡一族をめぐって展開しながら、一脳病院の年代記が、ついには日本全体の時代と運命を象徴するものとなる。

本作を読むのであれば、三島由紀夫の推薦文(刊行時、単行本の外箱に記載されたもの)をぜひチェックしてください。まさにこの指摘のとおりで、本作の意義や魅力がよくわかります。

内容紹介と感想

虚栄の院

カイゼルひげがトレードマークの楡基一郎。精神科医であり、田舎から出てきてたった一代で大病院を築き上げた実業家であり、政友会の代議士でもあります。愛想のよい楽天家で、よく言えばバイタリティあふれる、悪く言えば俗物根性あふれる人物です。

ご自慢の西洋風の病院は7つの塔が並び立つ立派な建物。ところがその実、石柱の中身は木材なのです。読んでいて、五輪の金メダルがほぼ銀でできていると知ってガッカリしたときのことを思い出しました。

関東大震災発生後、基一郎とともに病院に駆け付けた城吉(徹吉の弟)が崩れた柱を見て「テンプラ・コンクリだったべか」という感想を抱くくだりは妙に印象に残ります。

虚栄に満ちた一族の実態を象徴しているかのような場面ですね。それでいてシリアスの中にもユーモアが垣間見え、作者のセンスが光っています。

変な家

落第を繰り返し、30代でようやく新米の医者になれた長男の欧洲(おうしゅう)は、千代子という女性と結婚しました。

完全な部外者であった彼女の目を通してみると、楡家の異質さがより際立ちます。

どうもこの家では親子兄弟がてんでんばらばらに生存しているようで、その一人一人がまた一風変っているように思われた。

基一郎に限らず、楡一族は癖が強い人間ばかりです。

基一郎の妻ひさは外面がいいだけ。長女の龍子は父親を盲信しているうえに我が強い。三女の桃子は子どもを捨てて家出。次男の米国(よねくに)はなぜか自身を重病だと思い込んでいる。

もちろん、彼らにも長所や愛すべき点はありますし、思わず同情してしまうエピソード(医者との結婚を強制されるなど)も見られるのですが……。

姑だけでなく、夫と別居した小姑の龍子まで新婚家庭に転がり込んできて、ストレスが限界に達しそうな千代子。愚痴を吐いているうちに相当な皮肉屋になってしまいした。朱に交われば赤くなるってことですかね。

先代の影と2代目の苦労

基一郎に秀才ぶりを見込まれ、15歳で上京した徹吉。婿養子の彼が院長になってからは苦労の連続でした。職員も患者も生前の基一郎を美化し始め、病院は亡霊に支配されているかのよう。

徹吉にとっては、めちゃくちゃなところが目立った義父の診察。ところが、「まかし給え」だの「日本一の薬」だの安請け合いしていた自称名医のほうが頼もしい印象を与えていたらしいのです。

実際、この手のはったりが有効なケースもあるのでしょうね。これが外科や内科などであったら、事情がまた違ったのかもしれませんが。

なお、徹吉は作者の父、精神科医・歌人の斎藤茂吉に相当する人物ですが、作中では文学者としての側面は意図的に省かれているようです。

追想と悔恨

私生活でも妻子と距離ができてしまった徹吉は、『精神医学史』の執筆に打ち込むことに。書き上がった暁には満足感が得られるかと思いきや、彼を迎えたのは「生ぬるい虚脱と空白感だけ」。

徹吉が見出す空虚さに関しては、戦後に故郷で追想にふける場面を読んでも、身に染みるものがあります。

がむしゃらに頑張ってきたけれど、自分の人生は本当にこれでよかったのか。もっと子どもたちを可愛がればよかった。なんて愚かだったのだろう、むなしい──そんなふうに考えてしまう晩年。

多くの同世代、あるいは終戦後の日本そのものにも重なる感覚ではないでしょうか。

「死」を夢想する末っ子

龍子と徹吉の次男、周二は北杜夫(本名は斎藤宗吉)本人にあたるキャラクター。第2部から登場する昭和っ子です。

勉強が苦手で小心者、とろくさくて少しケチ。彼が登場したときは、作者は自分を卑下しすぎなんじゃないかなあ、とも思いました。

そんな周二が一番生き生きしているのは戦争が激化してから。すべてのものに等しく訪れる死を想うとき、彼は解放感にひたることができました。

一連の死へのあこがれ描写については、全く受け付けない人と強く賛同する人で両極端に分かれそうなところです。

終戦と挑戦

「戦争を知らない子どもたち」ならぬ平和を知らない子どもであった周二は、敗戦の報に衝撃を受け、こう考えます。死に損なった、と。彼にしてみれば、華々しく散るタイミングを逸したというわけです。

再び投げやりな態度になってしまった周二。しかも浪人生です。その兄の峻一もまた戦地で過酷な体験をしたことで覇気をなくしており、恋人を失った姉の藍子も心身ともに痛手を負っています。

三者三様に傷心の日々を送る子どもたちをよそに、龍子は楡病院再建をあきらめられません。彼女のたくましさ、ある種の闘志は、良くも悪くも基一郎譲りなのでしょう。

おわりに

本作は文庫本で全3巻と非常にボリュームのある長編小説ですので、読むのも一苦労かもしれません。

しかし、戦前・戦中のことを知っている語り部が減少している現在、『楡家の人びと』は20世紀前半という時代に興味がある方に特におすすめです。

本記事では紹介しきれなかった面白いキャラクター、エピソードもまだまだたくさんありますので、ぜひ本編を読んで確かめてみてください。