今回は、創元推理文庫『怪奇小説傑作集1 英米編1』(平井呈一訳)に収録されているホラー短編を紹介したいと思います。
はじめに
「恐怖は人間の最も古い、最も強い情感だ」
解説で引用されているラヴクラフトの言葉は、恐怖という根源的な感情の何たるかを端的に表現しています。
それでいて未知なる存在や恐怖(を切り抜ける)体験に魅了される人間も大勢いるのが面白いところ。怪奇小説・ホラー映画・お化け屋敷などにおいては、恐怖と快楽が表裏一体になっていますよね。
さて、数々のオマージュやパロディを生んだ『猿の手』をはじめ、19世紀後半から20世紀初頭に書かれた怪奇小説の世界をのぞいてみましょう。
W・W・ジェイコブズ『猿の手』
まじないの手
ホワイト家は老夫婦と息子のハーバートの3人暮らし。裕福ではないものの仲の良い家族です。
ある晩、インド帰りのモリス曹長が一家を訪ねてきました。そこで話題になったのが曹長の持つ「猿の手」。
ぱっと見は干からびた獣の手にすぎませんが、宿命に逆らおうとすると酷い目に遭うぞ、という教訓を伝えるために行者がまじないをかけたという曰く付きの代物です。
3人の人間がそれぞれ3つの願いを叶えることができ、前の持ち主(故人)と曹長が使用済みなので、残すところあと1人。猿の手を処分しようとした曹長に待ったをかけ、ホワイト氏はそれを譲り受けることにしました。
願いの代償
曹長によると「ごく自然に」「まるで偶然みたいに」事が起きるとのこと。
ホワイト氏は猿の手を掲げ、200ポンド(家のローンの残額)がほしいと言ってみましたが、お金が出てくる様子はありません。翌朝、ハーバートは父親をからかいながら出勤していきました。
しかし、笑い話では済みませんでした。昼過ぎに息子の会社関係者が老夫婦の前に現れ、金一封を差し出してきたのです。それがどういうお金であったかというと……。
絶望したホワイト夫人がひらめいた2つ目の願いと、追い詰められたホワイト氏が望んだ最後の願いについては、ぜひ本編を読んでご確認ください。ごく短い小説ですが、濃縮されたホラーを堪能することができます。
ブルワー・リットン『幽霊屋敷』
幽霊退治?
本作は『怪談』の小泉八雲などからも高く評価されている一篇です。
主人公は、幽霊は人間の頭脳がひねり出したもの、という持論を有する人物。借主が次々と逃げ出す幽霊屋敷の話を聞いた彼は、喜び勇んで調査に乗り出します。
しかし、実際に屋敷で遭遇したのはポルターガイスト、白い服を着た美女や痩せた子どもなどの幽霊たち、そして蛇のような目……想像を越える心霊現象の連続でした。
当初の意気込みはどこへやら、主人公はたった一晩で場を離れることに。とはいえ、怪異の発生源となっている部屋の特定に成功し、そこを撤去することで平和を取り戻しました。
後日、幽霊と接点のあった留守番の老人の過去が判明。彼女はなかなかに業が深い人物で、あのような経緯があって長年無事だったのが不思議なくらいです。
呪いをかけた男
問題の部屋を取り壊す前に怪しい呪文や古い肖像画が見つかるのですが、この絵の人物の来歴がなんだかサンジェルマン伯爵っぽい。
さらには、肖像画と瓜二つのリチャーズ氏が登場します。蛇を思わせる目をした古風な男性で、東洋学者かつ催眠術の大家だという噂です。
ここから彼と主人公の会話がしばらく続きます。意外な展開だと思いましたが、作者的にはこの神秘哲学の問答こそが書きたかったポイントだったようです。
本作の原題は“The Haunted and the Hunters; or The House and the Brain”。シンプルな邦題に対し、最初から頭脳に絡む話であると示唆されているんですね。
ちなみに『貸家』というタイトルで岡本綺堂が訳したバージョンも存在するのですが、そちらではリチャーズ氏のエピソードがばっさりカットされています。
ヘンリー・ジェイムズ『エドマンド・オーム卿』
恋と苦難と死と
美しいシャーロットと、その母マーデン夫人は見た目も性格もよく似ていました。2人と交流を重ねるうちに「わたし」は、時々夫人が挙動不審になることに気がつきます。
ある日、教会で黒服の若い紳士を見かけた「わたし」。どうやらある「因果」によって、彼の姿は「わたし」と夫人以外には見えないようです。
夫人いわく、夫が亡くなってからその幽霊、すなわちエドマンド・オーム卿が出現するようになったとのこと。そして「わたし」に卿が認識できる理由は、シャーロットへの恋心に関係しているらしいのですが……。
あやふやさが生み出す恐怖
本作は『ねじの回転』で知られる作者の短編です。
知人が残した文章を紹介しているという体裁をとっている点、「朦朧法(もうろうほう)」や「未解決法」を用いて暗示的な内容を書くにとどめている点などが、両作品に共通しています。
嘘か真か、本当は何があったのか。あえて曖昧さを残し、読者の想像に任せるテクニックです。アンソロジーゆえ、こうした多様なスタイルの怪奇小説を読めるのが楽しいですね。
アーサー・マッケン『パンの大神』
パンの大神を見る
「パンの大神を見る」、それは真実の世界を覆い隠しているヴェールをかかげること。
物語は、ドクター・レイモンドが友人クラークの前で少女メリーに脳手術を施すところから始まります。
このドクターがマッドサイエンティスト風のキャラクターで、最初から最後まで最悪なのです。メリーを貧しい生活から救った恩人なのだから、彼女の命をどうしようと自分の勝手だ、と思っているという非道ぶり。
そして、彼の実験がのちに世間にも波紋を呼ぶことになります。
謎の妖婦ヘレン
実業家のクラークは密かに「悪魔の実在を証する記録集」なるものを作っています。森の中にばかりいる奇妙な少女「ヘレン・V」にまつわる事例を間に挟み、物語は次の舞台へ。
新章はヴィリヤズ(クラークの知人)と旧友ハーバートが偶然再会する場面からスタート。ハーバートは妻ヘレン・ヴォーンが原因ですっかり落ちぶれていました。
現在行方不明である彼女がぼくの良心を破滅させた、地獄をのぞいた──そう語る友人の事情が気になったヴィリヤズ。何も知らない青年が私立探偵よろしく調査を始める流れは非常にワクワクしました。
ハーバート夫人の肖像画を見て何かを察するクラーク、遠方で亡くなった画家が描いた夫人やヴァルプルギスの夜のスケッチ、5人の紳士が立て続けに自死する怪事件など、最後まで目が離せない要素がちりばめられています。
森の神との接触
ラヴクラフトはマッケン作品から強い影響を受けているため、クトゥルフ神話の源流を知りたいファンにとっても『パンの大神』は一読の価値あり。
作中に登場する邪神のイメージは、ギリシア神話の牧神パンの伝承をベースにしていると思われます。
解説によると本作は出版当時かなり批判されたそうで、時代を考えるとさもありなん。露骨な描写が含まれているわけではないんですけどね。
なお、平井呈一訳『パンの大神』は『恐怖 アーサー・マッケン傑作選』(創元推理文庫)にも収録されています。
アルジャーノン・ブラックウッド『秘書奇譚』
ミッションインポッシブル
秘書ジム・ショートハウスが社長サイドボタムから受けた指令。それは社長の昔の共同事業者、ジョエル・ガーヴィーの署名が書かれた書類(詳細不明)を彼の自宅まで運ぶこと。その実態は「ゆすり」です。
偽の書類まで用意して、金銭・利権がらみで一波乱あるのかと思いきや、ここから話は予期せぬ方向に進んでいきます。
ガーヴィー宅の時計が遅れていたせいで最終列車を逃したジムは、そこで一泊することを強いられました。しかも到着してから常に見張られているような感覚があるのです。
今宵のディナーは
現在のガーヴィーは化学に夢中。本棚のひとつが研究室の出入り口になっているのですが、この手の隠し扉の元祖って何なんでしょうね。
ガーヴィーの誠意ある対応を受け、社長の言い分を鵜吞みにしすぎた、彼は悪人ではないのかもしれない、とジムが考え始めたところで異変が発生します。
興奮を抑えているように見えるガーヴィー。「晩は一皿だけにしているから」という発言。読んでいて宮沢賢治の『注文の多い料理店』が頭をよぎりました。
「真空」を好み、神出鬼没の下男マークスの存在も不気味です。
恐怖の一夜
身を守るため、一睡もしないよう頑張るジム。実体を持った相手が物理的に害をなそうとしてくるということで、他の幽霊譚とはまた違う怖さがあります。
ジムの精神力にはひたすら感心しました。もちろん彼にも恐怖心はありますが、ガーヴィーの前では素知らぬ顔で通したり、冷静に観察・行動したりと十二分にすごい。
なお、本作は『秘書綺譚 ブラックウッド幻想怪奇傑作集』(南條竹則訳、光文社古典新訳文庫)にも収録されています。ジム・ショートハウスものをすべてカバーしているので、彼のキャラクターが気に入った方はそちらをどうぞ。
J・S・レ・ファニュ『緑茶』
務めを果たせない牧師
本作は、ゴシックホラー『吸血鬼カーミラ』で有名なレ・ファニュの代表作のひとつ。
ドイツ人医師のヘッセリウス博士がイングランドを訪れたときの話です。その地で知り合った牧師のジェニングは、読書家で上品かつ内気な紳士ですが、少しおかしなところがあるとも言われていました。
教会で司会をしていると、しばしば体調を崩してしまうのです。そして、見えない何かを目で追っているかのようなしぐさをします。
彼が置かれている状況について当たりをつけたヘッセリウス博士は、その後の打ち明け話で自身の推測が正しかったと確信しました。
黒い猿
4年前、ジェニング師は古代宗教哲学の研究をしており、執筆のおともに緑茶を愛飲していたとのこと。
しばらくすると赤い目をした真っ黒な小猿を見かけるようになりました。悪意を持った猿はだんだんと挑戦的になり、ジェニング師の仕事を妨害するだけでなく、自他ともに傷つけるよう命令までしてきて……。
邪教扱いの古代宗教、紅茶でなく緑茶、ヨーロッパ周辺にはほとんどいなかった猿。こうしたモチーフを鑑みるに、作品が書かれた当時の東洋に対するイメージは、神秘的・超自然的だったり、まだまだ漠然として不気味だったりしたのでしょうね。
おわりに
このほかに本書に収められているのは、古本に挟まっていた布地をめぐる物語『ポインター氏の日録』、別荘で奇怪な悪夢を見る『いも虫』、見ず知らずの相手と生死が交錯する『炎天』。
古典ホラーの有名どころを押さえておきい方におすすめの1冊です。