H・G・ウェルズ『タイム・マシン』ほか

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先人が思い描いた未来像はさまざまです。その中には理想郷もありましたし、むろん真逆のものも存在しました。ウェルズ作『タイム・マシン』は後者に属し、未来はディストピアとなり果てています。

『タイム・マシン』(Time Machine)

あらすじ

時間旅行者が語る、人類の黄昏──。

タイム・マシンを発明した男は、遥か遠い未来へとやってきた。80万年後の世界で彼が出会ったのは、小柄で子どものようなエロイ(イーロイ)である。知性の面でも芸術の面でも進化した人類を期待していた時間旅行者はひどく落胆する。

しかし、それはまだ世界の半分を目にしたに過ぎなかった。しばらくして時間旅行者は、モーロックなる種族にマシンを奪われたことに気づく。

内容紹介と感想

私は大人になってから本作を読みました。読む前はもっとわかりやすい冒険譚かと思っていましたので、次のような社会的要素、風刺が含まれているのは意外でした。

進化の果てに

時間旅行者がたどり着いた未来。それは、人類の黄金時代が過去のものとなり、ゆるやかに破滅に向かう世界でした。博物館跡など、かつて栄えた文明の遺物が一部に見られるものの、人類が衰退しつつあるのは間違いありません。

病気を克服し、蚊や雑草を排除し、自然をもコントロールするようになった人間たち。行くところまで行った進化の後は退化するのみで、エロイたちにハングリー精神は残されていません。彼らは怒りや悲しみをほとんど忘れ去ってしまったかのようです。

栄光の影──エロイとモーロック

80万年後、人類は2つの種族に分かれて暮らしています。一方は、地上で牧歌的かつ怠惰な生活を送るエロイ。もう一方は、地下に住む醜く獰猛なモーロックです。

猿のような容姿のモーロックは、スウィフト作『ガリバー旅行記』に登場する獰猛な獣「ヤフー」とも共通点がある気がします。

時間旅行者は、現状に至った経緯について考察を巡らせます。現代(作中では19世紀)においても資本家と労働者の格差が存在する──持てる者・持たざる者が地上と地下に分かれていったのではないか、と。そして今や、支配者階級であったはずのエロイは、モーロックに脅かされているのです。

何世紀にもわたって続いた活動の名残でモーロックから衣類など必需品の供給を受けているエロイたち。その姿は、牧場にいる家畜のようでもあります。

とはいえ、人間性がまったく失われたわけではありません。溺れているところを時間旅行者が助けて以来親しくなった、エロイの娘ウィーナの存在が象徴的です。彼女の情愛には心打たれるものがあり、時間旅行者は彼女を安全な現代に連れ帰ろうとさえ思っていたのですが……。

星の終わり

危機的状況に陥った後、何とかモーロックの魔の手を逃れることができた時間旅行者。彼はさらに未来を巡っていきます。

3千万年以上先の未来。そこは、太陽が間近に迫り、ほとんどの生命が死に絶えた場所。暗闇と薄明の間を行き来する、地球という星の終焉でした。

物語の大半は80万年後の世界での出来事に費やされていますが、こちらの場面も鮮明な印象を刻みます。

『塀についた扉』(The Door in the Wall)

あらすじ

これは、事故死した閣僚・ウォレスから聞いた話である。

幼少時のこと、彼は白い壁についた緑色の扉を発見した。その扉の先は、二匹の豹や美しく優しい人々の住む、魔法の園であった。その後の人生においても、数度にわたって緑の扉を見かける機会はあったが、中に入ることはなかった。そして現在、中年となったウォレスは、扉が永遠に失われたと感じている……。

内容紹介と感想

個人的に印象深かったウェルズ作品です。『タイム・マシン 他九篇』(岩波文庫)などのほか、幻想文学の名手ボルヘスが編集した世界文学全集「バベルの図書館」シリーズ(国書刊行会)にも、『白壁の緑の扉』というタイトルで収録されています。

ウォレスは、これまでにも他者に緑の扉の話を打ち明けたことがありました。しかし、周りの人間は彼を嘘つき扱いするだけ。父親からは罰を与えられた上に童話の本を取り上げられ、同級生にはいじめられました。

やがてウォレス自身も、緑の扉より学業や出世、社会的地位を重視するようになっていきました。ところが今になって魔法の園が懐かしくてたまらないのです。人生に疲れているせいかもしれません。

「私」こと友人のレドモンドには、話の真偽はわからずじまいです。ただ、ウォレスにはある種の「超能力」があったのだろうと考えています。

私も、ウォレスが語る別世界の話自体はどのように受け取ってもよいと思います。ウォレスの不幸は、感受性の豊かさを隅にやり、周りの求める型通りの大人にならざるを得なかった点ではないでしょうか。このあたり『星の王子さま』の「ぼく」と同じようなもどかしさを感じないでもありません。

時間旅行者とウィーナの交流を通しては、人を人たらしめているものは何なのか考えさせられました。『タイム・マシン』では人間性が、『塀についた扉』では個人性が問われているのかもしれません。ウォレスにとっての魔法の園は、ウィーナの残した一輪の花のように、かけがえのないものであったことでしょう。