今回は民俗学者・柳田国男による説話集『遠野物語』(1910)を紹介します。
概要
日本民俗学の草分け的書物
国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。
『遠野物語』序文より
岩手県遠野地方出身の佐々木喜善(鏡石)から聞いた話を、柳田国男が1冊の本にまとめたものが『遠野物語』です。佐々木は作家・民話収集家で「日本のグリム」とも呼ばれています。
本作に収録されているエピソードは短いものばかりですが、知名度の高い神様や妖怪の伝承のみならず、臨死体験や凄惨な流血事件まで、内容は非常にバラエティに富んだものとなっています。
一字一句加減せず
初めて本作を読む方にとって、下記の〈内容紹介と感想〉はノイズになってしまうかもしれません。
というのも、柳田が民俗学者としての見解や考察を他の著作に譲り、『遠野物語』では注釈の類を最低限に留めているからです。
こうした著者の意図を鑑みれば、下手に予備知識を仕入れずに『遠野物語』本文を読むのが一番だと思います。まずは率直に、素直な気持ちで物語を受けとめて「戦慄」してください。
文章が簡潔だからこそ、かえって想像力を働かせる余地があるのではないでしょうか。
感じたままに
岩波文庫『遠野物語・山の人生』の巻末には、桑原武夫氏のエッセイ「『遠野物語』から」および解説が収録されています。『遠野物語』に対する造詣が深まりますので、一読をおすすめします。
たとえば、序文に「聞きたるまま」ではなく「感じたるまま」書いた、とある点。私は桑原氏の指摘を見るまで完全に流してしまっていました。
あからさまに卑猥な話・表現は避けているという点も、言われてみれば確かに…と思う部分です。
民俗学の特選ギフトのごとき『遠野物語』。編纂者である柳田の好みというか美的感性というか、そういったものが本作における精緻な構成や文学性を付与するに至ったようです。
内容紹介と感想
以下、個人的に印象に残った話を取り上げていきたいと思います。
※カッコ内は本編に付されている話の番号です。
家の神
オクナイサマ(14・15・70)
オクナイサマをお祭りすると幸運がもたらされるそうです。
ある年、田植えをする人手が足りず困っていた阿部家。すると、どこからともなく子どもがやって来て手伝いをしてくれるではありませんか。
作業終了後、泥のついた足跡が家の中に続いているのを発見した阿部さん。その先にはオクナイサマの神棚が……。
オクナイサマが優しいやら可愛いやらで、お気に入りの15番。泥んこのまま定位置に戻ってしまったところも、ご愛敬ということで。
この手の話の中では、ぴょんぴょん飛び跳ねて火消しにあたるゴンゲサマ(110)も好きです。
オシラサマ(69)
馬を愛した娘
14番の注によるとオシラサマは双神。オシラ信仰は遠野に限らず東北で広くみられ、女と男であったり馬であったり2体で1組が基本みたいですね。
69番はそんなオシラサマの起源(の一例)を語った異類婚姻譚です。
ある貧しい農家の娘さんが馬に恋をし、夫婦になりました。それを知った父親の心中やいかに。彼は馬に手をかけ、さらには首を斬り落としてしまいます。途端に、馬にすがりついて泣いていた娘さんは、その首に乗ったまま天に昇っていきました。
このとき馬を吊るした木が桑だったので、それをご神体の材料に使うようになったそうな。
大白神考
オシラサマをめぐる柳田の著作には「大白神考(おしらがみこう)」もあります。これによると「オシラ」は元々蚕(カイコ)の異名ないし忌詞であったとされ、イタコとの関係などについても触れられています。
「大白神考」は、『柳田国男全集15』(ちくま文庫)等に収録されているほか、国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可能です。
ザシキワラシ(17・18)
家の盛衰
旧家(昔から続いてきた由緒ある家)に少なからずいるという、子どもの姿をした守り神ザシキワラシ。彼らが宿る家は繁盛し、去った家は没落するというので有名です。
なぜか私はザシキワラシ=1軒につき1人と思い込んでいたのですが、次の話からすると、そういうわけでもないのですね。映画『シャイニング』の双子ではありませんが、平時は愛らしいだけの少女2人が、状況次第では不穏さを倍加させます。
凶兆
18番はとある旧家がどのようにして最期を迎えたかについてのお話。
ある日、見慣れない美しい少女2人が連れ立って歩いているのに遭遇した村の男性。聞けば山口孫左衛門さんの家から来て別の誰それさんの家に行くのだとか。
ほどなくして山口家で食中毒事件が発生。使用人も含め、ほとんどの人が亡くなりました。おそらく、あの子たちはザシキワラシだったのです。
なお、これに相当する話は、佐々木喜善『奥州のザシキワラシの話』にも収録されています(53番)。そちらによると、少女2人が向かったのは気仙の稲子沢(いなこざわ)だそうです。
マヨヒガ(63・64)
〈迷い家〉伝説
遠野では山中にある不思議な家を「マヨヒガ」と呼ぶそうです。マヨヒガの扉は、訪れた人に家の中のものを授けるために開かれるらしく、63番は成功談、64番は失敗談となっています。
前者の鈍臭いけれど無欲な女性は、のちに川で赤い椀を拾いました。それをはかり代わりにしたところ、いくら消費しても穀物が底をつくことがなく、どんどん豊かになったとのこと。女性がマヨヒガから何も持ち出さなかったので、お椀のほうが勝手に追いかけてきたようです。
後者の男性は、長者になりたい人たちを連れて山に引き返しましたが、再びマヨヒガを見つけることは叶いませんでした。
イソップ寓話の「金の斧 銀の斧」のように、人となり・誠実さを試されている感じがしますね。
無人の隠れ里?
14番にあるマヨヒガの特徴は以下のとおり。
- 立派な黒い門を入ると、庭一面に紅白の花が咲いている
- 家畜(鶏・牛・馬)がたくさんいる
- 手前の部屋には朱と黒の膳椀が並んでいる
- 奥の座敷には火鉢があって鉄瓶のお湯が煮立っている
- 人影は見えない
民話に登場する隠れ里というのは、しばしば裕福であったり、〈椀貸伝説(わんかしでんせつ)〉が絡んでいたりするようですが、マヨヒガはその類例といえそうです。
色鮮やかな花々は仙境らしさを際立てています。97番の臨死体験に出てくるケシの花畑(極楽浄土のイメージ?)に通じるものもあるかもしれません。
また、直前まで人がいたような気配はあるのに誰もいない、というあたりも興味をひかれる要素です。尾ひれが付いたバージョンの「メアリー・セレスト号事件」を少し連想させます。
家そのものが意志を持って人を選んでいる、なんて考えてみるのも面白いですね。
川童(55~59)
58番の姥子淵(おばこふち)の川童(かっぱ)は、水中から馬にいたずらを仕掛けるという、典型的な〈河童駒引き〉のお話です。
反対に55番のエピソードは非常に不気味。ある女性のもとに夜な夜な現れる間男の正体がなんと川童なのです。
夫や親族が何とか対処しようとしますが、結局どうにもならず。後日、難産の末に妻が出産した赤ちゃんの手には水かきが……。
私の場合、『遠野物語』には童心に帰って楽しめる話と大人の視点であれこれ背景を考えてしまう話の2種類があるのですが、55番は後者でした。妖怪の子だと言って命を奪っていますが、うーん。
山男・山女(3~7ほか)
6番は、行方不明だった長者(豪農)の娘が山男の妻になっていた、というお話です。恐ろしいことに、産んだ子は片っ端から夫の山男に食べられてしまったそうです。
ゴヤ作『我が子を食らうサトゥルヌス』のような絵面なのでしょうか。先の川童といい、子殺しの話がちらほらあるところに言いようのない苦しさを感じます。
こうした山男や山女に関してよく挙げられる特徴は、背が高い・肌が赤いなどといったもの。天狗や山姥も似たくくりになるのでしょう。また、話によっては神隠しに関わってくるケースも。
山人の正体に関しては諸説ありますが、そのあたりは『山の人生』等で考察されています。6番はホラー展開でしたが、食料などと引き換えに力仕事を手伝ってくれることもよくあるんだとか。
色々の鳥──郭公と時鳥(53)
昔、郭公(かっこう)と時鳥(ほととぎす)という名の姉妹がいました。
ある時、お芋を焼いた姉の郭公は、表面の堅い部分を自分が食べ、内側のやわらかい部分を妹にあげようとしました。しかし、おいしいところを独り占めするつもりなのだと誤解した時鳥は、郭公を刺殺してしまいます。
亡くなった姉は鳥に変身し、「ガンコ、ガンコ」(方言で「堅いところ」の意)と鳴きながら飛び去りました。姉の真意を察し後悔した妹もまた鳥になり、「包丁かけた」と鳴いたといいます。
鳥の鳴き声のいわれを語った悲しいお話です。「ガンコ」「包丁かけた」を声に出して読んでみると「カッコー」「ホーホケキョ」に音が近いことがわかりますので、試してみてください。
おわりに
うたて此世はをぐらきを
『野辺のゆきゝ』「夕ぐれに眠のさめし時」より
何しにわれはさめつらむ、
いざ今いち度かへらばや、
うつくしかりし夢の世に、
我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。また我々をして考えしめる。
『山の人生』〈1 山に埋もれたる人生あること〉より
柳田国男は青年時代に詩作をしていたことがあります。そして年をとってからもロマンティストなところとリアリストなところの両面があったのではないでしょうか。
同様に、『遠野物語』には「うつくしかりし夢」と「隠れた現実」の両方が混在しているのかもしれません。私は本作を読んでいく中で、過去・現在・未来の連続性、日常と非日常の連続性、生と死の連続性といったものを感じました。
『遠野物語』序文では、この話は「目前の出来事」「現在の事実」であるという点が強調されています。
作中に描かれているのは英雄でもなく偉人でもなく、遠い昔の出来事でもありません。その身近さ、現在性に『遠野物語』、民俗学の意義があるのだと思います。


