横光利一『機械』

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横光利一の短編『機械』は、「四人称の設定」を取り入れた実験的小説です。

あらすじ

私はもう私が分らなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖せんせんがじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を審いてくれ。

劇薬も扱うネームプレート製造所を舞台に、主人の発明品を巡り複雑に絡み合う職人たちの思惑。それはやがて大きな事件へと発展し、判断能力を失くした「私」は壊れてゆく……。

主な登場人物

「私」
物語の語り手。上京した際、成り行きで主人の工場に就職した。その後も辞めるに辞められず、ずるずると仕事を続けている。

主人
40代だが子どものように無邪気な性格をしている。加えて金にルーズなのが細君の悩みの種。最近、新しい研究に取り組み始めた。

軽部
古参の従業員。主人に対して忠義を尽くそうとするあまり暴走してしまうことも。「私」や屋敷をスパイ認定して敵視している。

屋敷
主人の友人が営む製造所から応援でやって来た新参者。頭がよく魅力的な人物だが、不審な行動が見られる?

内容紹介と感想

文体の特徴

段落が少ないうえに一文一文がやたらと長く、ページにみっしり文字が並んでいる本作。こういった文章上の演出が読み手に無機質な印象を与えます。 

『機械』が1930年、チャップリンの『モダン・タイムス』が1936年の作品ですから、機械と絡めて人間心理を描こうという発想は、当時の時代背景も影響しているのでしょうね。

「私」の人物像

主人は塩化鉄に侵されておかしくなっているのではないか、と考えている「私」。しかし、「私」は「私」でかなり風変わりな人物です。自分のこと・他人のことを問わず、全編にわたって妙に淡泊な反応を見せます。

軽部の敵対心や暴力に対しても「やれやれ」といった調子で応じますし、親しくなった屋敷が軽部に殴られても、いったん傍観者を決め込むのです。

大変な事態であるにもかかわらず、自分の置かれている状況を冷めた目で分析している自分がいる、という経験は私にもなくはありません。しかし、「私」が異常に思える点は、身体的な苦痛や不快感を伴ってもなおその姿勢が崩れないところです。

「闘争・逃走反応(fight-or-flight response)」と言われるくらいで、ピンチの時に動物がとる行動は戦うか逃げるかが基本でしょう。けれど「私」は何もしない。その不自然さ、物事を遠くから眺めているような「私」の存在が四人称のテーマに関わってきます。

「四人称」とは

そもそも「四人称」って何なのでしょう。

個人的に一番わかりやすいと思ったのは、『思考の整理学』でおなじみ外山滋比古氏の考え方です。外山氏は、例えば演劇等の観客のように、当事者から距離を置いている第三者、「アウトサイダー」を「第四人称」として位置づけています。

しかし『機械』の場合は、このアウトサイダーにあたるのも「私」なのです。一人称=「私」で、四人称=「私を見る私」ということ。これが作品全体に漂う異物感といいますか、普通の一人称小説とは何か違うぞ、と感じさせる要因になっています。

軽部と「私」、「私」と屋敷

工場という一つの機械の中で歯車のように働く人間たち。そこに齟齬が生じていきます。

主人はしょっちゅう金を落とすダメ男ですが、人好きのするタイプです。そんな主人がある日、新しい研究に一緒に取り組まないかと「私」に持ちかけてきます。「人というものは信用されてしまったらもうこちらの負け」で、その時から「私」はその信用に応えるべく「暗示にかかった信徒みたいに」なってしまいました。

かつて軽部に勘違いで言いがかりをつけられた経験があるというのに、「私」は主人の研究を守ろうと屋敷を疑い、その言動に目を光らせるようになります。軽部と「私」、「私」と屋敷で似たような構図が繰り返されるのです。

また、屋敷とは気が合う部分も多い一方、彼は自分を小馬鹿にしているところがあると「私」は感じています。ここも「私」が軽部を軽蔑している点と重なります(と言っても、他の登場人物の視点が欠けている以上、軽部や屋敷の心中というのは「私」の想像でしかないんですけどね)。

そして、互いに猜疑心や嫉妬心が強まり、大量発注による仕事疲れがピークに達したところで、大事件が起こるのです。

屋敷の死

だがこの私ひとりにとって明瞭なこともどこまでが現実として明瞭なことなのかどこでどうして計ることが出来るのであろう。それにも拘らず私たちの間には一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを押し進めてくれているのである。

遠因は多々あれど、最後の引き金を引いたのは、またしても金を落とした主人でした。ここまで来るとわざとやっているのではないかと疑いたくなるレベルで、事態をいっきに破滅に向かわせる逆デウス・エクス・マキナと呼びたいところです。

やけになった職人3名は夜の工場で酒をあおるのですが、目が覚めてみると屋敷が劇薬を飲んで亡くなっていました。ただの事故なのか、それとも……。

故意によるものか無意識下の行動かはさておき、最有力容疑者は軽部です。しかし、「私」は「私」が犯人ではないと言い切れるだろうかと苦悩します。屋敷の存在を恐れていたのは誰よりも自分ではなかったか、と。

ラストにおいては四人称の「私」の認識もあやふやになっています。
もはや観測者不在のため、シュレディンガーの猫のごとく犯人であると同時に事件に無関係の「私」も存在し、事実はどちらの状態に収束することもない……わけないか。うーん、私も混乱してきました。

結局、真相は闇の中。しかしひょっとすると、一人称の「私」を外から見ている四人称の「私」を外から見ている私たち読者が、作中描写に対して一定の判断を下すことによって、この物語はようやく一つの帰結に至るのかもしれないなあ、なんて考えたりします。