川端康成『古都』

近現代文学
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『古都』は、1961年から62年にかけて連載されていた川端康成最後の新聞小説です。

あらすじ

京都の呉服問屋の一人娘として美しく成長した佐田千重子。育ての親に可愛がられてはいるものの、実は捨て子であったという過去が心のしこりとなっていた。

祇園祭の夜、千重子は自分によく似た北山杉の村の娘、苗子と偶然出会う。二人は生き別れの双子であった。

千重子と苗子は交流を重ねるが、境遇の違いは大きく……。

作品背景

京都市電北野線が廃止されるという話が作中に出てきますので、『古都』の舞台は新聞連載時期と同様に1961年。高度経済成長期にあたり、産業構造が大きく変化していった時代ですね。

戦後、川端康成は日本の伝統美に重きを置いた作品を書いていました。本作の連載に関しても、古都において失われつつあるものを書き残しておきたい、という意図があったようです。

また、睡眠薬を服用しつつ、ふわふわした状態で執筆していたそうで、川端は本作を指して「私の異常な所産」であると述べています。あとがきによると、1冊の本としてまとめるにあたって手を加えたものの、「行文の乱れ、調子の狂いが、かえってこの作品の特色となっていると思えるものはそのまま残した」とのこと。

こうした事情があってか、本作は独特の味わいのある小説になっています。

内容紹介と感想

分かたれた運命

異なる環境で育った双子姉妹の生き様が主軸となっている『古都』。見ようによってはベタな設定とも言えそうですが、そこは文豪、しっとりと美しい物語に仕上げています。

出自に悩む千重子

「上のすみれと下のすみれとは、会うことがあるのかしら。お互いに知っているのかしら。」

古木のくぼみに咲く二株のすみれは、古都で生きる可憐な姉妹の象徴のようです。千重子はすみれの花に対して時に「生命」を感じ、時には「孤独」を感じますが、それは彼女の心の内を反映しているのでしょう。

千重子は自分の生い立ちに関して引っかかりを覚えていました。幼馴染から「幸福なお嬢さん」だと言われて、本当にそうなのかと自問してしまうほどに。

祇園さんの夜桜の下にいるところを見つけてさらってきたのだ、と両親からは聞かされていますが、とても信じられません。千重子にしてみれば、竹から生まれたかぐや姫と同じくらいファンタジーな話に思えてしまうのですね。

しかしながら、名人気質の父・太吉郎と働き者の母・しげに惜しみない愛情を注がれ、何不自由なく育ったのもまた事実。互いを思いやる佐田一家には血のつながりの有無などもはや関係ありません。特にしげのさりげない気遣いは読んでいて心にしみました。

気丈に振る舞う苗子

北山杉の丸太屋で奉公をしている苗子。彼女の登場は意外と遅く、千重子と直接顔を合わせることになるのは物語中盤です。

瓜二つの顔をしていても、姉妹の手は決定的に違っていました。千重子の「やわらかい手」と苗子の「皮の厚い、荒れた手」──これはそのまま二人が暮らしている環境の違いを表しています。

千重子が捨てられたのは経済的事情によるものかもしれません。また、古くは迷信のために双生児を忌み子として扱うこともあったようです。

生みの親はすでに亡くなっており、残された苗子は、この京都のどこかにお姉さんか妹がいるということを心の支えして生きてきたのでしょう。杉山で雷雨に見舞われた際に怖がる千重子をかばう場面などはとりわけ印象的で、千重子を大切に想う苗子の強い気持ちが伝わってきます。

しかし、それは同時に千重子の今の生活を壊したくない、という遠慮にもつながっているのです。苗子が千重子のことをほぼ一貫して「お嬢さん」呼びしているのが何とも寂しく感じます。

佐田家に一度だけ泊りにきて、「これがあたしの一生のしあわせどしたやろ。」と言い残し、雪の中を去っていくラストシーンがまた切ない。

登場人物が織りなす恋模様

かぐや姫に負けず劣らずもてる千重子。水木兄弟、秀男の三人から好意を寄せられています。

西陣織の職人

西陣で織屋をしている大友家の長男である秀男。無骨なところはありますが、非常に腕の良い職人です。

太吉郎は秀男を一時婿養子候補にあげていました。図案の問題点(家族と離れて寺にこもっているせいで「荒れて病的」になっている)をずばり指摘されたことで、これは見所がある若者だ、と逆に秀男のことを気に入ってしまったのですね。

対して秀男の父親は、息子と千重子お嬢さんでは釣り合わない、という意見を持っていました。

その後、秀男は千重子の頼みで姉妹二人分の帯を織ることに。これを機に苗子と知り合い、彼女に求婚するに至ります。しかし苗子は、これは「身代わり結婚」、秀男は自分の中に千重子の「幻」を見ているに過ぎないと感じていました。

仮にそれが真実であるとすれば、女性の身にとってはこの上なくつらい話ですね。
はかない幻の喩えとして鏡花水月という言葉が用いられることがありますが、千重子が高嶺の花なら、彼女そっくりの苗子は鏡に映った花の影のような存在なのでしょうか。

大問屋の息子たち

水木真一は大問屋の次男坊で大学生。千重子とは幼馴染で、今でも一緒に花見に行くなど、気安く遊べる友人関係が続いています。子どもの頃に祇園祭できれいな稚児姿を披露したことがあり、その時の思い出は千重子のまぶたの裏に焼き付いて離れません。 

その兄の竜助は大学院生。気立ての優しい弟と比べると猪突猛進型で、千重子が思わずドキリとするような物言いをすることも。太吉郎の店の番頭が帳簿をごまかしているのではないかという疑惑が発生した後、手伝いのため佐田家に出入りするようになります。

さて、複雑な恋の行方やいかに……と気になるところではありますが、結局どうなるかというと、別にどうにもなりません。

竜助がこの調子で婿入りするのかもしれないし、しないかもしれない。苗子は秀男のプロポーズを固辞した可能性が高いものの、違うかもしれない。いずれも明確な描写はないまま物語は幕切れを迎えます。

古都の美しさ

本作を千重子(と苗子)の物語としてのみ見てしまうと、「この後どうなったんだ?」と物足りなく感じる部分があったり、反対に「このくだりは必要か?」と余計に感じるような場面があったりします。

しかし、タイトルにある「古都」そのものに意識を向けるならば、この展開でよかったのだろうと思えてくるのです。

「忘れんとおこ、一生、忘れんとおこ……。人間かて、心しだいかしらん。」

「ああ、今年も京の春に会った。」──そんな感慨に浸ることのできる紅しだれ桜。夏の「燃えあがる炎のような空」。今では京都の府木となっている北山杉の真っ直ぐな木立に、「冬の花」とでも呼べそうな杉葉。いつまでも心にとどめておきたい風景がそこにはありました。

他方で、太吉郎が隠居先探しに行った際、通りが料理旅館だらけになっていてがっかりするというシーンも。刻一刻と変化する時代の流れは、否応なしに京都のような古都にも迫ってきています。

本作は、平安神宮や清水寺、祇園祭に時代祭と、京都の名所や行事を取り上げた観光案内的な側面も有しています。古都の景観・風俗、四季折々の美しさ、そしてこの地でひたむきに生きる人々。そうした情景描写の秀逸さこそが本作の一番の魅力なのです。