『山月記』や『李陵』などで知られる中島敦が独自の視点で描く西遊記。
あらすじ
「もうだめだ。俺は」 自分とは何か? 悲観主義のインテリ悟浄は、思い悩んだ末にいろいろな賢人を訪ねて歩くことにした。(悟浄出世)
休憩中の三蔵一行。悟空が八戒に変化の術を教えている。悟浄は、その様子を眺めつつ悟空らの性格について考えを巡らせる。(悟浄歎異―沙門悟浄の手記―)
内容紹介と感想
孫悟空や猪八戒と比べると、個性が薄い印象の沙悟浄。『悟浄出世』と『悟浄歎異』がほかの西遊記ものと一味違うのは、そんな彼を主役に据え、何事にも懐疑的な思索家として表現したところであります。
『悟浄出世』は、三蔵法師らと出会う前の前日譚。
妖怪であるにもかかわらず、人間のごとく抑うつ状態にある悟浄。 ニヒリズムにとらわれ、口をついて出るのはネガティブな独り言ばかりです。「俺は堕天使だ」などとつぶやいているというくだりで、おいおい、と思ってしまいましたが、そういえば元々は天界の役人という設定があるんでしたね。
悟浄は様々な賢人や医者などに教えを請いますが、なかなかしっくりくる意見はありません。
地の文でも「失敗への危惧から努力を放棄していた」などと書かれてしまうありさまの悟浄でしたが、遍歴ののち、ようやく変化の兆しが見られるようになりました。
そして疲労がピークに達したころ、夢枕に立った菩薩にお説教を受けます。
まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。
私もそうですが、頭でっかちなタイプには耳が痛い言葉です。このあたりの話は、『山月記』の「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」に通じるものがあるように思います。
続いて悟浄は、三蔵に同行しなさい、その弟子の悟空からは多くを学ぶことができるだろうとアドバイスをもらうのでした。
かくして後日談の『悟浄歎異』へ。
歎異(たんに)といえば、親鸞の教えについて書かれた仏教書『歎異抄』をまず連想しますね。意味は「異端を歎(なげ)くこと」。
『悟浄出世』は三人称視点でしたが、こちらは手記とあるとおり、完全に悟浄の主観です。悟空、八戒、三蔵と、その性格や言動は三者三様でありますが、悟浄にとって注目すべきはやはり悟空。「この男の中には常に火が燃えている」と評される、悟浄から一番性格のかけはなれた天才肌の行動派です。
悟空の内なる炎の熾烈さに関する話がしばらく続くのですが、私はこの辺で元テニスプレーヤーの松岡修造氏が頭に浮かんでしまいまして、冷静に読めずまいりました。本来は躍動感あふれる描写に感心すべきところだったのでしょうが……。
それはさておき、多少は進歩した様子の悟浄。相変わらずひねくれていますが、三蔵一行の一員として旅する中でほのかな光を見出したようです。
考えすぎて行動に移せない、それでも前に進みたい、そういう気持ちを体現した連作短編でした。