小泉八雲『日本人の微笑』ほか

近現代文学
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前回に続き『小泉八雲集』から、今回は随筆・日本文化論等をいくつかご紹介します。

『怪談』等の再話文学でも八雲の創造力は存分に発揮されていますが、以下のような随筆もぜひ読んでほしいところ。八雲が鋭い感性の持ち主であることがよくわかります。

『小泉八雲集』

日本人の微笑(『知られぬ日本の面影』より)

外国人が日本人の微笑に戸惑うのは、それが楽しいときだけでなく苦しいとき、時には死に際しても顔に現れるから。

本文では、不可思議な微笑について考察するとともに、急激な近代化推進についての懸念も示されています。

そしていつの日かきっと、過ぎ去った過去──素朴で純粋な歓びに対する感覚、自然に対する親しみなど──を追憶するときが訪れるだろうと八雲はいうのです。

そのとき、日本人は悲しみ、驚嘆し、後悔もするだろう、と。何よりも象徴的なのが神々の温顔を思わせる「かつての日本人の微笑」なのです。

こうした著作を読んでいると、失われた美徳があることに日本人のひとりとして何となく申し訳なさを感じることがあります。

もちろん現代のほうが良くなった点も多々ありますし、幕末・明治期に来日した外国人の中でもさまざまな日本人評が見られるので、一概にどうこう言えないでしょうが……。

赤い婚礼(『東の国より』より)

およしは幼なじみと相思相愛の間柄でしたが、横やりが入りました。若く美しい彼女を妻にしたがっている中年男から、継母が金銭的においしい結婚条件を取り付けたのです。

しかし、明治生まれながら武家の血筋であるおよしは、鋼の意志を持つ女性でした。縁談を持ちかけられた彼女は、一瞬絶望したのち笑ってみせたのです。

打算で生きている継母には娘の真意を察することができません。そう、およしが決意したこととは……。

日本における心中というのは非常に奇異に映るようで、本書でも何度か取り上げられています。西洋のそれとは違い、冷静で筋が通っていて、なおかつ神聖ですらあると八雲は記しています。

きみ子(『心』より)

芸者の「きみ子」は本名を「あい」といいました。良家の出であるものの不幸が続き、母や妹を養うため自ら進んで芸者に弟子入りしたのです。

たくさんの客を袖にしてきたきみ子でしたが、彼女のために自殺未遂までした「痴れ者」に心動かされ、駆け落ちしてしまいます。しかし妙なことに、きみ子に結婚の意思はありませんでした。

地獄で暮らしていた自分は妻にも母にもなれない、ただ、別の女性とあなたの間に子どもが生まれたら一目会ってみたい──恋人にこう言い残し、半年後にきみ子は行方をくらましました。そして時は流れ……。

きみ子の真心と自己犠牲、ささやかな喜び。彼女の生きざまには心打たれます。八雲も述べるとおり、きみ子=あいの生涯は「哀と愛の物語」そのもの。名は体を表すとはこのことでしょう。

草ひばり(『骨董』より)

一時期、八雲は家で草ひばり(コオロギ科の昆虫)を飼っていました。とても小さな虫ですが、雲雀のように美しい声で鳴くので、この名前があるようです。

冒頭でも「一寸の虫にも五分の魂」という日本のことわざに触れているように、八雲はちっぽけな草ひばりの中に受け継がれてきた「有機的な記憶」や「理想の痕跡」に想いをはせます。

夜のしじまを埋めてくれた草ひばりに向けられる愛情。そして喪失感。胸が痛くなる一篇です。

それにしても「歌うために、自分の心まで食らわねばならない、人の形をしたこおろぎ・・・・さえいる」という最後の一文にはぞくっとしました。

焼津にて(『霊の日本にて』より)

「海には魂も耳もある」。そんな言い伝えのある漁師町でお盆を過ごしたときのエピソード。一連の暗く、深く、厳かな海の描写が実にドラマチックです。

八雲の目には、流されていく灯籠のひとつひとつが震える命のように見えました。そして自分のすぐそばに霊的な存在がいるような心持になったといいます。

さらに八雲に言わせれば、海の声よりはるかに深淵な「霊魂のあらし」が偉大なる音楽なのだそう。そうしたものに呼応する何かが、先述の草ひばりと同じく我々人類のDNAにも刻まれているのでしょうね。

萩原朔太郎『小泉八雲の家庭生活』

最後に、詩人の萩原朔太郎が家庭人としての八雲について書いた文章を紹介したいと思います。なかなかに気難しいところもあったみたいですね。

【参考】萩原朔太郎『小泉八雲の家庭生活』(青空文庫)

ヘルンとセツ

ヘルンの妻であった日本女性は、もとより極めて聡明であったと共に、武士道ストイシズムの家庭教育から、非常な意志の力をもって努力した。彼女は自らそれを告白して、良人の気性をすっかりむようになるまでは、一通りでない努力をしたと言ってる。しかしよく解った後では、全く子供のように正直一途しょうじきいちずで、子供のように純情無比の人であったと言ってる。

生まれはギリシアのイオニア諸島、さまざまな国を転々とし、1890年に来日したラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)。翌年、松江にて住み込み女中であった小泉節子(セツ)と結婚(どちらも再婚)。その後、1896年に日本国籍を取得し、名前を小泉八雲と改めます。

本人も気に入っていたという愛称は、Hearnから転じて「ヘルン」。やわらかい響きがよいですね。

小泉家の親子間の会話は主に英語だったそうですが、八雲は「ヘルンさん言葉」なる独特の日本語も使っていたとのこと。夫人に宛てた手紙の「小サイ可愛イママサマ」という書き出しがかわいすぎる。

子どもたちから見ても、ヘルンパパとセツママが会話しているときは不思議な言語空間ができあがっていたようです。

セツは語り部として日本の伝承や書籍の内容などを伝え、八雲の執筆活動の協力者としても多大な貢献をしました。

永遠の漂泊者

夢見ることによって生きた詩人等は、また夢見ることの中で死ぬのであった。世界の国々を漂泊して、ついに心の郷愁を慰められなかった旅人ヘルンは、最後にまたその夢の中で漂泊しながら、見知らぬ遠い国々を旅し歩いた。

ボヘミアン、悲しき『永遠の漂泊者』、浦島の子──朔太郎による人物評はどれも的を射ているのではないでしょうか。

日本に骨を埋めることになった八雲。しかし、妻子がいなければ日本を去っていたに違いないと朔太郎は書いており、八雲自身もそのような趣旨の発言をしています。

八雲は(特に古の)日本の魅力をたくさん発信してくれましたが、生活していくうちに見えてくる残念な部分、幻滅するような経験もあったわけです。

カルチャーショックには何段階かあって、現代でも海外移住にはワクワク→がっかり→適応・受容といった流れが付き物。理想郷なんてどこにも存在しません。

朔太郎が松尾芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を引用しているように、八雲は心情的には最後まで旅人であり続けた。日本もまた安住の地ではなかった。

けれど、そうだとしても、八雲がその時々の感動の瞬間を切り取り、書き記してくれたことで、自分にはない物の見方、意識していなかった日本の美しさに気づけたということを、私はとても嬉しく思うのです。