菊池寛『無名作家の日記』ほか

※当サイトでは、第三者配信のアフィリエイトプログラムにより商品を紹介しています。

『恩讐の彼方に』『父帰る』などで知られる菊池寛。今回はややマイナーな短編小説を、『無名作家の日記 他九篇』(岩波文庫)の収録作品の中から紹介します。

『無名作家の日記』

芥川龍之介や久米正雄(ともに菊池寛とは同級生)がモデルではないか、と話題になった作品。主人公の「俺」は、文壇に名を成すことを夢見る京都の学生。山野ら高校時代の仲間が同人雑誌を出し世間から評価を得る一方、嫉妬心にさいなまれ焦りを覚えます。

ひたすら「俺」がくすぶっているだけの日々をつづった日記形式の小説です。同じ作家志望の友人と一緒になってライバル・山野の作品の悪口を言ってみたり、先生に自作品を預けてからの数か月、新作に着手するでもなく悶々と過ごすだけだったり。

小説家・漫画家志望者などにとっては、あるあるエピソードかもしれません。山野たちがそれなりに大人な対応をしている分、作品の質だけでなく人間性の面でも「俺」との間に差が開いてしまっている風なのが悲しいですね…… 。

『身投げ救助業』

京都の岡崎で茶店を営む老婆の半生。店近くの疎水では身を投げる人が後を絶ちません。最初こそ何もできずにいた老婆でしたが、今では竿で人を助けるのも手慣れたもの。報奨金もたくさん貯まり、娘に婿をもらって店を広げることをささやかな老後の楽しみとしていました。しかし、そんな彼女に思わぬ不幸が訪れ……。

身投げという行為が日常と化して感覚が鈍くなっていたところがあるとはいえ、老婆の行動の根底にあるのは善意でした。けれど、助けた相手は心から感謝しているようには見えない。その気持ちを老婆が知るとき、介在したのはまた別の善意。誰が悪いわけでもないため、ひたすら読後感がやるせない話です。

『死者を嗤ふ』

著者の私生活を題材とした「啓吉物」のひとつ。溺れて亡くなった人物を水中から引き揚げようとしているところに野次馬が集まっているという、『身投げ救助業』を別視点から描いたようなお話。
啓吉は、死者を笑っている群衆に不快感を覚える一方で、自分にも同様の好奇心がなかったとは言えないのではないかと感じています。

いったいどの立場から他者を批判しているのか? 人のことを言えるのか? こういう考えは日常でもわくことがありますね。私自身、自分のことを棚に上げてえらそうなことを書いていたりするので、身につまされます。

『ある抗議書』

被害者遺族の書いた手紙という形をとった短編。刑務所内でキリスト教に帰依した凶悪犯は、救いを得てこの世を去った。それに比べ、命を奪われた姉夫婦や、事件のショックで衰弱した母の救いはどこにあるのか──と彼は訴えます。

直接的被害以外の単純には推し量れない罪の重さ、被害者側の苦しみ。こういったテーマは、本書の収録作品ではありませんが、『若杉裁判長』でも描かれています。

『島原心中』

元検事・綾部が、心中現場で生き残った男に事情聴取をしたときの話。途中で綾部は、話を引き出すための方便であった自身の言葉に真実が含まれていたことに気づきます。そんな彼が現場を立ち去る前にとった行動とは……。

普段の自分らしからぬ行動。はたから見て奇異に映っても、無意味であっても、それが人情というものではないでしょうか。

『大島が出来る話』

譲吉は、学費以外に日常生活でも近藤夫人の世話になっていました。もっとも今は、就職・結婚をし、それなりに生活が落ち着いています。現在の譲吉のあこがれは、妻の影響もあって大島絣(おおしまがすり)の着物をそろえることだったのですが……。

恩返しをするということは対等な関係になること、ゆえに以前の人情関係を消滅させること、与えられた恩にはただただ純な気持ちを抱いていたい、という譲吉の考え方は、新鮮に感じられました。

近藤夫人に対して、血縁者でもなく、かといって全くの赤の他人でもない、微妙な立ち位置にいる譲吉。そんな彼が大島を得たときの複雑な胸中やいかに。

『慎ましき配偶』

容姿に恵まれなかった令嬢の婚活物語です。両親は彼女を愛していますが、美しい妹たちに比べると憐れみ混じりであることに気がつく澄子。女学校卒業後もよい結婚相手が見つかりません。また、ある程度話が進むことがあっても、お見合いの後に断られてしまいます。ショックのあまり澄子は男性に対してますます臆病になり、どんどん年を重ねていくことに……。

澄子の境遇に、読んでいてとても胸が苦しくなりました。
でも最後はハッピーエンド。お相手がどんな方だったかは、ぜひご自身で読んで確かめてみてください。

おわりに

先入観で難しそうなイメージがありましたが、文章自体は存外読みやすかった菊池寛の現代もの。重いテーマの作品も含まれているものの、どれもストーリーに引き込まれます。

解説によりますと、菊池寛は芥川龍之介に対して「善は美よりも重大」であると語ったことがあるそうです。確かに作者の善意、道徳的意識というものは、本書を通読して強く感じました。