今回ご紹介するのは、『思考の整理学』の著者による読書論『乱読のセレンディピティ』です。
自己表現としての読書
新聞等の書評を目安にして本を選ぶのは、ある種の自己放棄であると著者はいいます。大切なのは、失敗を恐れずに自分で本を選び、自分のお金で買うこと。自己責任ゆえ読書の重みが違ってきますし、タイトルにある乱読もしやすくなるのです。
「学生時代に比べ、読書に対して保守的になっているな」と思う今日この頃の私。書店で気になる本があっても買う前に考えるのは、「とりあえずAmazonか何かで評価をチェックしよう」です。これって失敗する“覚悟”が足りないのでしょうね。
書店や図書館で「これは面白そうだ」とある本が目に留まる。実際にその本を読んでみたら面白かった。そんなときの喜びは唯一無二のもの。その本が世間的にすでに高い評価を得ているとか、逆に苦手としている人もわりといるとか、本当はそんなことどうでもよいのです。自分の判断が自分の中で正しかったということ、自分が「発見」したという感覚がたまりません。
読書ブログを運営しておいて我ながら矛盾を感じなくもないですが、個人的には、最高の読書体験は自分で本を選んだ先に待っているものだと思っています。おすすめされた本を読むのを否定するわけではなく、そこはベターとベストの違いですかね。
乱読入門
世の中に本があふれている現在、もっとも面白い読書法は乱読なのだそう。加えて、乱読はジャンル不問であるべきで、専門バカになってはいけません。こうした読書スタイルが脳内で化学反応を起こし、セレンディピティ(予想外の発見)をもたらしてくれます。無関係だと思われた点と点がつながり、突如として形が見えてくるという感じでしょうか。
本書で乱読入門として推奨されているのが、新聞(一般紙)・総合雑誌です。さまざまな情報が少しずつ取り上げられていて網羅性が高いので、複数の本にとりかかかる前のウォーミングアップとしてちょうどよいのでしょう。
アルファー読みとベータ読み
外山氏は読み方を2つに分類します。アルファー読みは予備知識のある状態での読み方、ベータ読みは意味がわからないまま読み進める読み方です。後者ができないと乱読もできません。文字が読めること=読書能力があることではなく、ベータ読みを身に着けないと読解力も育たないのです。この点、著者は文学偏重の学校教育を問題視しています。
文学が文学になる条件
やや話はそれますが、文学作品が成立するために重要なのは何でしょう。作者がいて、作品があって、それで終わり……ではなく、読者の存在が必要不可欠です。
いわれてみると当たり前の話なのですが、普段はあまり意識していなかった気がします。読者なき作品は忘れ去られるのみ。一時的なベストセラーで終わるか、後世まで残るロングセラーになれるかは読者次第でしょう。
頭にいい暮らし
朝方の生活をする、散歩をする、バランスのよい食事(読書)をする、睡眠により記憶の新陳代謝をはかる、雑談・乱談でストレスを解消する──この本を通して外山氏の暮らしぶりを知ると、体にいいことは頭にもいいであろうことがよくわかります。
著者は、知識信仰からくる視野の狭さを“読書メタボリック症候群型近視”と呼んでいます。何をするにも本を読むところから入りがちな私のようなタイプは、気をつけないといけません。
反省するきっかけ自体がこの「本」であることを思うと、一瞬あれ?となりますが、あくまでバランスが大切という話なので、そこはよしとしましょう。
おわりに
勉強法などと同じで、読書法は画一的に扱えるものではありません。この本はヒントなのです。自分に合っていると感じた部分は真似をして、ここは違うなあと思う部分はほかの方法をとる、といった具合に、一人ひとりに合った読書法を確立していけたらよいのではないでしょうか。