『影をなくした男』(原題:Peter Schlemihls wundersame Geschichte)は、ドイツ・ロマン派の文学者アーデルベルト・フォン・シャミッソー作の中編小説。自分の影を売った男の数奇な人生をメルヘンタッチで描いています。
あらすじ
はなはだ厚かましいお願いで恐縮ですが、いかがでしょう、あなたのその影をおゆずりいただくわけにはまいらないものでしょうか
貧しい青年の前に現れたのは、灰色の服に身を包んだ不思議な男であった。「幸運の金袋」につられた青年は、安易に自分の影を手放してしまう。
ところが、どんなに金持ちであっても影を持たない者に対する世間の風は冷たく……。
内容紹介と感想
影なき男の不幸
主人公シュレミールがとある富豪宅で出会った灰色服の男。なんとこの老人、ポケットからテントや馬まで取り出せるのです。まるでドラえもんの四次元ポケットですね。
目先の利益にとらわれ、謎の男に影を売ってしまったシュレミールですが、すぐに後悔することになります。彼を待ち受けていたのは、嘲りとほんのわずかばかりの同情。影がないことがばれるたびに引っ越しを余儀なくされます。
しかしながら、そんな状況でも救いはありました。忠実な召使いであると同時に無二の友とも言えるベンデルや、秘密を知ってもなお彼を慕う健気な婚約者ミーナの存在です。そしてシュレミールは、1年後に改めて取引をしようという灰色服の男の言葉に最後の望みを託すのでした。
悪魔との契約
影を返す条件として灰色服の男が要求してきたのは魂でした。どうやらこちらが真の目的だったようです。当然ながら、等価交換と言えるのかどうか釈然としないシュレミール。ミーナを想い、契約書にサインをしたものかどうか苦悩しますが……。
灰色服の男の立ち回りは、ゲーテ作『ファウスト』に登場する悪魔メフィストと共通する点がありますが、正直あちらの方がまだ愛嬌があるような気がします。しつこく取引を迫る灰色服の男が実にうっとうしいのです。
結局、婚約者を失ったシュレミールは放浪の身の上に。もう一生日陰者として生きていくしかないのでしょうか。
第二の人生
ところが、ここで意外な転機が訪れます。一歩で七里(7リーグ)進むことができるという伝説の「七里靴」を偶然手に入れたのです。シュレミールは世界中を飛び回る学者となり、新しい生きがいを見つけました。
この辺りの流れはやや唐突な印象ですが、ひょっとして靴屋の男の子は、シュレミールを哀れんだ天の使いだったりするのでしょうか。
ちなみに、旅の途中でベンデルとミーナのその後も判明しますが、現在は平穏な暮らしを送っているようでほっとしました。
「影」とは何か?
影というのは何の比喩なのだろう──本書を読んだ方の多くは、そんな疑問を抱くのではないでしょうか。
同じく影をモチーフとした作品でも、ゲド戦記シリーズ『影との戦い』などは心理学的観点から考察をしやすいのですが、本作が描いているのは〈戦い〉ではなく〈喪失〉ですから扱いが大幅に異なります。
私も読みながら色々と考えてみました。例えば、流行りのおもちゃを持っていないために仲間外れにされる、といった状況を極端に表現すれば本作のようになるのかもしれません。足並みをそろえていない人に冷たくあたる、というのは現実でもままあることです──たとえその行為に合理的根拠がなかったとしても。作中でも、影がないと何がどういけないのかは一切語られないまま、シュレミールは差別を受け続けます。
一方、作品発表当時から見られた考え方は〈影=祖国〉〈主人公=作者〉というもの。これは、作者シャミッソーがフランス系ドイツ人であったことから出てきた意見です(シュレミールが後年植物研究に励んでいる点も、シャミッソー本人と一致します)。
確かに、国に限らず、勤め先など所属を持たない人間に対する世間の目は厳しいですからね。自然が受け皿になってくれましたが、シュレミールが人間社会からはじき出されたままであることに変わりはないですし。
……と一度は納得しかけたものの、訳者の池内紀氏によるあとがき「ペーター・シュレミールが生まれるまで」を読んでいると、読者側が勘ぐり過ぎていただけなのかもしれない、とも思えてきます。実際、シャミッソーは加筆した序詩で「自分の影をなくしたりはしなかった」とわざわざ述べているのです。
むやみやたらと深読みしないでくれ、という作者の声が聞こえてきそうです。
もしも影がなくなったらどうなるのか? 子どものように無邪気な発想から生まれたおとぎ話を、私たちはもっと素直に楽しむべきなのでしょう。
それにしても、影をなくした男を主人公にして小説を書いたら、その主人公が作者の影であるかのように受け取られるという奇妙な事態になってしまうとは。やっぱり「影」の取り扱いにはくれぐれも注意しないといけませんね。