『時の旅人』(原題:A Traveller in Time)は、作者自身の少女時代の思い出と、歴史的事件を下敷きにした物語です。メアリー・スチュアートの処刑につながった「バビントン陰謀事件」(Babington Conspiracy)の数年前の時期を舞台にしています。
あらすじ
「それにね、私は経験豊かな旅人なの。たくさん旅をしたの。」
「″時″を旅する旅人なの」
その年の冬、ペネロピーはひどく体調を崩し、療養を必要としていました。そのため、ロンドンを離れ、農場を営む親戚のもとに預けられることになったのです。そこは昔、バビントン家の荘園の一部だったという場所でした。
ある日、ペネロピーは屋敷内で古風なドレス姿の貴婦人に出くわします。どうやら、ひいおばあさんも備えていたという「透視力」によるもののようです。
それ以降、ペネロピーは度々16世紀の世界に足を運ぶことになります。当時のバビントン家の人々は、歴史上の大事件に巻き込まれつつありました。その悲劇的結末を知るペネロピーは……。
主な登場人物
ペネロピー
病弱な少女。過去と現代を行き来する中で、生涯忘れられない体験をする。母方の一族は、代々バビントン家に仕えてきたという。
ティッシーおばさん、バーナバスおじさん
ペネロピーのおばあさんの兄姉。現代のサッカーズ農場で穏やかに暮らしている。
シスリーおばさん
ティッシーおばさん似のご先祖さま。ペネロピーを姪の一人だと勘違いし、台所の手伝いをさせることにする。
アンソニー・バビントン(1561-1586)
若くハンサムな当主。敬愛するメアリー女王の逃亡の手助けをしようとしているが……。
フランシス
アンソニーの弟。庶民に対しても気さくにふるまい、ペネロピーに好意を寄せる。
ジュード
下働きの少年。口はきけないが、不思議な力でペネロピーの正体を察している。
メアリー女王(1542-1587)
元スコットランド女王。王位継承権を巡る問題から、長らく軟禁状態に置かれている。
内容紹介と感想
懐かしき田舎の思い出
本作は、ペネロピーという女性が少女の頃に経験した不思議な出来事を綴った物語という体裁をとっています。
舞台は自然に囲まれたサッカーズ農場──昔のにおいのする場所。感性豊かな少女の目を通して描かれることで、そこでの生活は一層美しく輝いて見えます。
100年以上も前の道具類が屋敷内に普通に残っているのは、広い土地がある田舎ならではでしょうか。日本でも、蔵のあるお宅などはそうだったりしますよね。
おじさん、おばさんを手伝って動物の世話や料理をしたり、丘を散歩したり、きょうだいと一緒に探検したり……。やることはいくらでもあります。一瞬一瞬、すべてが新鮮で驚きに満ちていた子ども時代。そうした描写の繊細さは、本作の魅力のひとつです。
ペネロピーが2年ぶりに農場を訪れたとき、バーナバスおじさんが大喜びで出迎えてくれたこと、ティッシーおばさんの背を追い越していたこと。そんなちょっとした場面に何だかぐっときてしまいます。
16世紀へ
ペネロピーが迷い込んだ先は1582年、エリザベス女王(1世)治世下のイングランドでした。タイムスリップにはこれと言った法則性はなく、いつも唐突です。ひょっとすると、当時の人々の強い思いにシンクロして引き寄せられていくのかもしれません。
サッカーズへの愛と教養があり、美しいものを理解するペネロピーに、バビントン一家は非常に好意的です。しかし、この親切な人々や牧歌的な土地の雰囲気に似つかわしくない、血生臭い事件が近い将来起こることをペネロピーは知っていました。
そして、アンソニーと初めて会話した際、ペネロピーは自分でも思いがけず不吉な言葉を口にしてしまいます──メアリー女王は処刑「された」と。
囚われの女王
アンソニーには、一本気で真面目すぎて損するタイプという印象を持ちました。彼はメアリー女王のために命をささげる覚悟をしており、そんな夫に対して奥方は沈痛な面持ちで日々を過ごしています。
家族を悲しませるなんて……と思ってしまいますが、作中の言葉を借りれば「愛にはいろいろな愛がある」のだそうです。なみなみと水をたたえた枯れない泉のように、自分が犠牲になっても命は連綿と続いていくのだと、アンソニーは認識していました。
アンソニーがメアリー女王派なので、本作だけ読むとエリザベス女王が意地悪な人のように見えなくもありません。しかし、複雑な政治的・宗教的問題が背景にあるため、一概に善悪を判断するのは難しいのです。
この点、エリザベス女王に敬意を表するけれど、気の毒なメアリー女王が無事外国に行ければいいとも思う、というシスリーおばさんの意見は率直でいいですね。
なお、子どものいなかったエリザベス1世の次に王位に就いたのは、メアリー・スチュアートの息子ジェームズでした。その血は現在のイギリス王室にも受け継がれています。様々な面で二人の女王は対照的だったのです。
時を越えた愛
昔のサッカーズにいる間、ペネロピーは今この時こそが「現在」なのだと強く感じます。その一方で、現代の記憶があいまいになり、16世紀の人々に惹きつけられている自分に不安を覚えるのです。
途中、本当に元の時代に戻れなくなりそうになるトラブルもありましたが、ジュードのおかげで助かりました。親しくなってみると、ジュードは愛嬌もあり、頼りになるキャラクターでしたね。彼の作った物が現代の屋敷に残っていたのも何かの巡り合わせでしょう。
ジュードを除くと、ペネロピーが未来人であることを知っているのはフランシスだけです。両想いではあるものの、ペネロピーにはどうすることもできません。リチャード・マシスン原作のSFラブストーリー『ある日どこかで』もそうですが、好きになった相手がすでにこの世には存在しない人というのは、切ない話ですね。
「私、結婚なんかしないわ、ティッシーおばさん。私、世界じゅうのだれとも恋なんかしない。」
ペネロピーはまだまだ子どもで、本当の恋を知らないからそんなことを言うのだろう、とおばさんは思ったことでしょう。実際はその逆だったのです。
ペネロピー、ペーネロペイア(Penelope)と言えば、出征したオデュッセウスの帰りを待ち続けた貞淑な妻の名前としても知られています。本作のペネロピーも、このギリシア神話を意識したネーミングなのでしょうか。
おわりに
ペネロピーが何歳なのか正確なところはわかりませんが、物語が成長期と重なっているので10代前半であろうと考えられます。まさに子どもから大人への移行期ですね。
大きく心が揺れ動くこの時期の経験は、いつまでも鮮明に脳裏に浮かぶものです。それがどんなに苦くつらい経験であったとしても。刹那的な青春の旅路は、同時に永遠でもありました。