「こんな夢を見た。」という冒頭文で有名な連作短編『夢十夜』。夢をモチーフにしているだけあって、どこかつかみどころがなく、漱石作品の中ではイレギュラーな作風です。
第一夜:百年後の約束
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。(中略)自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。
内容に反して妙に淡々とした調子の会話が味わい深い一話目。十話中、最もロマンチックで幻想的色彩が強いエピソードです。
真白な肌をした女の一面真黒な瞳には「自分」の姿が映し出されています。自分が死んだら、星の破片(かけ)を墓標にして真珠貝で掘った穴に埋めてほしい、と言う女。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
日沈を数え続けた「自分」が、女に騙されたのではないかと考え始めた頃。一輪の真白な百合が咲き、「自分」に口づけをしました。白い女は白い百合に転生したのでしょうか。
西洋では、白い百合(マドンナリリー)は聖母マリアや女性性の象徴らしく、そのイメージとも合わせて永遠の美しさ、愛といったものを感じさせる一篇ですね。時代設定がはっきりしていない分、普遍性があるように思われます。
また、「百」年後に「合」うので「百合」なのではないか、という意見もあるそうです。
第二夜:悟りを求める侍
お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。
和尚の発言に腹を立てた「自分」は、悟ることができたら和尚の首をとる、そうでなければ自刃すると決意。あおるような言い方をする和尚さんもどうかと思いますが、「自分」は「自分」でプライドが高く、自意識過剰な感じがしますね。
「悟ってやる。無だ、無だ」と念じれば念じるほど、閉塞感を覚え不安定になっていく「自分」。悟りから遠のく一方です。
侍と聞くと江戸時代以前を連想しますが、時計の描写があるので、舞台は明治なのでしょうか。時代が変わって士族が没落したからこそ、余計に「侍」であることにこだわっている、とか。まあ、夢なので厳密に時代考証をする必要はないのかもしれませんが。
ちなみに部屋のふすまの絵は、黒い柳と笠をかぶった漁夫が描かれているということで、与謝蕪村作『柳陰漁夫図』ではないかと思われます。蕪村の作風のような大らかさが「自分」にもあれば、また話は違ったのでしょうね。
第三夜:罪と罰
六つになる子供を負ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。
個人的に一番印象に残っている、ホラーとしても秀逸な一篇。小僧の最後の台詞を読んだときは、恐怖で背筋がぞくりとしました。
雨がそぼ降る薄暗い道を歩く親子。「自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている」背中の子は、あざけるような口調で周囲の様子を言い当て、なんとも不気味です。
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」
すべてが明らかになり、「自分」が罪を認識した途端、急に重さを増す背中の子。
子泣き爺のようでもありますが、作中では石地蔵にたとえられています。その重みは、罪の重さなのでしょう。
第三夜は、文化五年(1808年)からちょうど百年後(1908年、『夢十夜』が発表された年)と時代設定がはっきりしていますが、第一夜同様、百年というのは長い時間の象徴と見る向きが強いようです。
第四夜:不思議な老人
腰にひょうたんをぶら下げ、つやつやした肌に白いひげを生やした年齢不詳の老人。当然、子どもの「自分」の好奇心をそそる存在です。柳の下までやってくると、老人は浅黄の手ぬぐいを取り出し、言いました。
「今にその手拭が蛇になるから、見ておろう。見ておろう」
箱の中で変身するという言葉を信じて、「自分」は老人のあとを追いかけます。
直進し続ける老人。いつ出るか、今出るかと期待を膨らませてついていく「自分」。
とうとう河の岸へ出た。橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入り出した。(中略)それでも爺さんは
「深くなる、夜になる、
真直になる」
と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。
「自分」は、そのうち老人が向こう岸に姿を見せるだろうと待っていました。「けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった」。
唖然とするオチ。
蛇に関しては拍子抜けであるものの、こちらの予想を大きく上回る展開で、反応に困ってしまいます。期待を裏切られたというより、宙ぶらりんにされた感じです。いや、確かにすごいんだけど、求めていたのはそうじゃないんだ……という。
肩透かしを食った一方で、本物の仙人か何かなのではないかと思わせる凄みも見せた、というのが第四夜の絶妙なところ。それにしても、この行き場のないワクワク感をどうしたものか。
第五夜:千古の敵
神代に近い昔々のお話。敵軍の捕虜になった「自分」は、最後にもう一度だけ恋人と会う許しを得ます。ただし猶予は鶏が鳴く時間まで。定刻に「自分」は処刑されるのです。
恋人は白馬に乗り「自分」のもとへ急ぎます。第一夜といい、白は純愛のシンボルとして用いられているのでしょうか。
しかし、天探女(あまのじゃく)が鶏の鳴く真似をしたせいで手元が狂い、恋人は崖から転落してしまいます。そして、時を隔ててなお「自分」が天探女に向ける憎しみは消えません。第三夜は自身の原罪意識にまつわる話、こちらは他者の罪という違いがありますね。
なお、日本神話には天探女(あまのさぐめ)という女神が登場し、天の使いである雉(きじ)を不吉だと言って天稚彦(あめのわかひこ)に射殺させた、というエピソードが見られます。この天探女が天邪鬼(あまのじゃく)の由来であるという説もあり、第五夜はこうした伝承を踏まえているものと思われます。
また、次の第六夜とのつながりで言えば、仁王像が踏みつけている小鬼も天邪鬼なのだそうです。ちょっと面白い符合ですね。
第六夜:明治の運慶
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
第六夜は、鎌倉時代の仏師・運慶の仕事ぶりを明治の人間が見物しているという不思議な状況。無造作なようでいて的確に木を削っていく運慶の姿に「自分」が感心していると、一人の若い男がこう言いました。
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」
こういう芸術観は、何となくわかるような気がします。「自分」も納得し、運慶にならって仁王を彫り出そうとしますが、全くうまく行きません。そして、「明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った」のでした。
運慶の作風は写実的・力強く男性的で、武士が台頭した時代らしい特徴を持っています。対する明治期は、社会体制の変化や西洋美術の影響で文化・芸術の在り方が揺らいだ時期でした。
自然と親和した素朴さがあった時代に比べて、近代以降はストレートさがなくなったというか、とにかく何もかもが複雑になり過ぎてしまったのでしょう。
余談ですが、芥川龍之介作『寒山拾得(かんざんじっとく)』の冒頭に次のような文があり、「あ、これ夢十夜の話だ」と思ったので、紹介しておきます。
久しぶりに漱石先生の所へ行つたら、先生は書斎のまん中に坐つて、腕組みをしながら、何か考へてゐた。「先生、どうしました」と云ふと「今、護国寺の三門で、運慶が仁王を刻んでゐるのを見て来た所だよ」と云ふ返事があつた。
寒山と拾得は、中国唐代の伝説的な禅僧です。奇矯な振る舞いが多い一方、そこがかえって後世の人々の心を惹きつけ、画題としても好まれてきました(森鴎外や井伏鱒二も彼らをモチーフにした作品を書いています)。第二夜の和尚や侍より、存外こういうタイプの方が悟りに近いところにいるのではないか、と思ったりします。
第七夜:あてどのない旅
大きな船に乗っている「自分」。しかし、どこへ向かっているかわかりません。乗客は外国人ばかりです。心細さのあまり、ついに「自分」は身を投げる決心を固めます。
最初は旅=人生という、よくある比喩かと思いました。ただ、「自分」は乗客の一人に過ぎず、舵をとる=運命を握っているのが赤の他人である点がしっくりこず、考え直すことに。
船の進行方向が西らしいということで、当時の日本の西欧化・近代化の流れと結び付けて解釈することも多いようです。また、イギリス留学した際の漱石の実体験もベースとなっているのでしょうね。
自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
後悔先に立たず。どんどん近づく黒い海面。第五夜と並んで「自分」が亡くなる話、と言いたいところですが、何分夢ですので、永遠に落ち続けるだけという可能性も否めません。終わりがないのも地獄ですね。
第八夜:床屋にて
第八~十夜では、「自分」は物語の中心から退き、傍観者に近い立場になっています。
第八夜の「自分」は床屋の椅子に腰かけているので、外の様子は鏡でしか把握できません。ヒッチコックの『裏窓』などもそうですが、こちらから見える範囲が限られていると、独特の演出効果が生まれて面白いですね。
また、この話の場合、鏡という道具を使ってワンクッション挟んでいる分、世の中の出来事から距離があり、現実性が希薄になっているようにも思います。とは言え、自然の鏡である瞳が「自分」だけを映しており、二人の世界で完結していた第一夜に比べれば、間接的にせよ、空間的広がりがあるのかもしれません。
ここで庄太郎と連れ立っている顔の見えない女が、第十夜の女と同一人物なのかどうか、実に気になるところです。
第九夜:母の思い出
足軽が登場するので、江戸時代以前の出来事でしょうか。まだ若い母と三歳になる子どもを残し、父は戦地へ向かいました。夫の無事を祈り、幼子を連れた母は御百度参りを続けます。しかし……。
こう云う風に、幾晩となく母が気を揉んで、夜の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に浪士のために殺されていたのである。
こんな悲い話を、夢の中で母から聞いた。
第九夜の要は、最後の一文に集約されているように思えます。いつ終わるとも知れない母の行為のすべてが無駄であり、報われなかった悲劇。
直接聞いた話ではなく、夢の中での話ということで、母は子どもの成長を待たずに亡くなってしまったのでしょうか。御百度参りの間、寂しい思いをした子の不安や虚無感、亡き母への思慕を感じます。
第三・四・九夜と、子どもが出てくる話は、いずれも大人の男性(父親、お爺さん)に失望させられる流れですね。
第十夜:庄太郎vs豚
「町内一の好男子で、至極善良な正直者」の床太郎。しかし、パナマ帽をかぶってぶらぶらしては、往来の女性と店先の果物(買いはしない)を眺めるのが趣味という困り者でもあります。
そんな庄太郎が女にさらわれました。絶壁までやってくると、女はここから飛び込めと言い出します。庄太郎が拒むと、大嫌いな豚が大量に迫ってきました。
第一夜で描かれた、どちらかと言えば古風で清純な女性像とは正反対ですね。今回は死の淵に立っているのが男、キスをしてくるのが豚という点も対照的です。
庄太郎がステッキで豚の鼻ずらをぶつと、豚は「ぐう」と言って転落しました。はたから見るとかなりシュールな情景ですが、当人は必死です。
一週間粘るも、ついに豚になめられてしまい、卒倒する庄太郎。その後、どうにか帰宅しましたが、熱で寝込んでしまいます。
健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善くないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。
どこのどなたか存じませんが、ひどいよ健さん。「自分」の反応も淡泊すぎます。
豚には怠惰や好色といったイメージもあるので、庄太郎が豚を苦手としているのは自己嫌悪・同族嫌悪なのかもしれませんね。あるいは、庄太郎が豚と並んで嫌いだという雲右衛門(明治・大正時代に活躍した浪曲師)から想起して、人気者に群がる大衆のイメージが豚なのか……。混沌を極めた最終話は、ある意味一番夢らしいお話ですね。
おわりに
第八夜と第十夜に同名の人物が登場する点を除けば、各話は独立している印象を受けますが、共通項もあります。
例えば「百」という数字であれば、百年後に百合が咲く(第一夜)、百年前に事件があった(第三夜)、お札の数が百枚のまま尽きない(第八夜)、御百度参りをする(第九夜)、といった具合に。
本作は、さらりと読むことも時間をかけて考察を深めることもできる、興趣が尽きない作品なのです。繰り返し読めば、また違った発見があることでしょう。