フィリップ・K・ディック『ユービック』

SF
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今回は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の作者フィリップ・K・ディックの代表作の一つをご紹介します。

あらすじ

ランシター合作社がマークしていた超能力者が立て続けに行方不明になった。その後、能力者たちは月面に集められている可能性が高いという情報が入ってくる。

選りすぐりのメンバーを集め、宇宙船に乗り込むランシター。ところが、彼らをおびき寄せることこそがライバル企業の狙いであった。逆に罠にはめられたランシター合作社の面々は爆撃で大きな被害を受ける。指揮者を失ったメンバーは急ぎ地球に帰還するが、彼らの周囲ではなぜか時間退行現象が起き始め……。

主な登場人物

ジョー・チップ
ランシター合作社所属のテスト技師。金銭面をはじめ私生活ではだらしないところがある一方、仲間の仇を討とうとする熱い一面も持っている。

パット
新人の若い女性。類例のない能力者で、時間逆行型の反予知者だという。挑発的な言動が多い。

グレン・ランシター
ランシター合作社の社長。高齢だが活力にあふれた人物。ジョーを信頼しており、彼を後継者とする旨を記した遺言書を作成している。

エラ
ランシターの妻で共同経営者。弱冠20歳で亡くなり、現在は〈半生者〉としてスイスの〈安息所〉にいる。夫と交信中、ジョリーの妨害を受けてしまう。

ジョリー
エラと同じ〈安息所〉にいる15歳の少年。しばしば他の〈半生者〉の精神に関与して、混乱を引き起こしている。

内容紹介と感想

世界設定

『ユービック』の世界は、我々が暮らす地球とはいくつかの点で大きく異なっています。

まずは超能力者の存在。
読心能力者〈テレパス〉や予知者〈プレコグ〉に加え、彼らの力を無効化することができる〈不活性者〉と呼ばれる人々がいます。エスパーを多数雇用しているホリス異能プロダクション等に対抗し、〈不活性者〉を派遣している会社がランシター合作社です。プライバシー保護や産業スパイ対策が必要とされている社会なのですね。

次に〈半生者〉と〈安息所〉。
故人は〈安息所〉の冷凍保存室に入れられます。彼らは〈半生者〉とされ、完全に機能停止する日が来るまでは、機器を通じて来訪者と通信することができるのです。この技術を利用し、ランシターは今でも亡き妻エラのアドバイスを受けています。とは言え、本当のお別れの日も近づきつつあるようですが……。

また、自宅でコーヒーを飲んだり、玄関を開け閉めしたりするのに逐一小銭が必要な点も特徴的です。これはかなり面倒なシステムですね。実際、時間が退行し始めた後、「物によっては昔の道具の方が便利なのでは?」とジョーが考えるシーンが見られます。

設定を把握するまで少々手間取ってしまうかもしれませんが、そこが本作の面白さの要でもありますので、頑張って読み進めましょう。

時間退行現象

爆発に巻き込まれた直後から、ジョーたちは奇妙な現象に見舞われるようになりました。

タバコは吸おうとしたそばから崩れ落ち、注文したコーヒーにはカビが生え、手持ちのお金は40年前に流通していたものに変わっています。乗り物もどんどん古い型に変化していくので、移動も一苦労。時間退行、衰退の力が影響しているのです。

一方、これと拮抗するかのように別の力も働いていました。旧貨幣に交じって、ランシターの顔が描かれた硬貨が見つかったのです。さらに、広告等を通じて、亡くなったはずのランシターからメッセージが届き始めました。

このランシターは本物なのか? そもそもなぜこのような事態に陥ったのか? 
仲間が一人、また一人と脱落していく中、焦燥感に駆られるばかりのジョー。ランシターいわく、対策としては〈ユービック〉なる代物を見つけるしかないらしいのですが……。

ユービックとは

ユービックの正体はなかなか読者に明かされません。各章の頭には必ずユービックの広告が挿入されていますが、車だったり食品だったりと統一感がないせいで訳がわからなくなる一方です。しかも、「使用上の注意を守れば安全です」とやたら強調してくるところが何だか怖い。

Ubikは辞書にもない造語。ユービックを追い求めながら、これはubiquity(神の遍在)にちなんだ名前なのかもしれない、とジョーは考えるのでした。この概念は、最終章冒頭にある創造者としてのユービックにつながっていきます。

生と死の間で

自分は間もなく生まれ変わるだろう、と発言するエラなどは、ずいぶん東洋的な死生観を持っているように思われ、印象に残りました(医者がエラに『チベットの死者の書』を読ませたことがある、という話も出てきます)。

もっとも、オルフェウス教のように、西洋でも輪廻転生を唱えている例はあるようですね。その名前の由来となっているギリシア神話のオルフェウス(亡き妻を連れ戻そうと冥界に向かう)や、崇拝の対象である女神ペルセポネ(冬は冥界で暮らし、春になると地上に戻る)のエピソードは、エラを連想させなくもありません。 

われわれは『ユービック』の登場人物のように、半生命状態にあります。われわれは死んでも生きてもおらず、解凍される日を待ちながら、冷凍睡眠に入っています。

訳者あとがきで紹介されている作者の言葉によれば、私たち現実世界の生者と作中の〈半生者〉に違いはないとのこと。そして、人類にとっての目覚めとはいわば春の来訪、「エントロピー過程の廃棄」であり、「新しい生命は、場合によっては完全な変容(メタモルフォージス)」であると述べています。

調べたところ、エントロピー(entropy)というのは物理学用語で無秩序さの度合いを示すのだそうです。それを廃棄するのだから秩序の回復──作中における直接描写としては、ユービックを用いて時間退行を止めること、ですね。哲学的な見方をするなら、カオス(混沌)からコスモス(秩序と調和を有する宇宙観)に移行するようなイメージなのでしょうか。あまり自信はありませんが……。

おわりに

超能力者失踪事件から始まるものの、その実〈半生者〉の内面世界に主眼を置いている本作。独特のストーリー展開がたまりません。とりわけ時間退行が進んでいく描写の秀逸さは、他の作品にはない魅力と言えるでしょう。