萩原朔太郎『猫町』

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あらすじ

読者にしてもし、私の不思議な物語からして、事物と現象の背後に隠れているところの、或る第四次元の世界──景色の裏側の実在性──を仮想し得るとせば、この物語の一切は真実レアールである。だが諸君にして、もしそれを仮想し得ないとするならば、私の現実に経験した次の事実も、所詮はモルヒネ中毒に中枢を冒された一詩人の、取りとめもないデカダンスの幻覚にしか過ぎないであろう。

薬物中毒で健康を害した私は、養生のために始めた散歩の途中で新しい楽しみを見つけた。元来、方向感覚に欠陥を抱えている、いうなれば「三半規管の喪失」に陥りがちなうえに、歩きながら瞑想にふける癖がある私は、偶然「磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間」にたどり着いたのだ。

そして、北越地方のK温泉を訪れた際、私はさらに奇怪な出来事を体験することに……。

内容紹介と感想

旅への誘い

ある日、近所を散歩しているうちに影絵のように美しい町に迷い込んだ「私」。狐に化かされてしまったのでしょうか?

……しかし、実際は何のことはありません。方位の錯覚により見慣れた町がいつもと違って見えただけの話だったのです。右と左、北と南、空間をあべこべに認識していたことに起因していたという。

方向音痴の私は、このエピソードに妙に親近感を覚えました。 
例えば、商店街を歩いている。店の一つに入って用を済ませて出てくる。ここで、はて、私はどちら側から歩いてきたのだったか、と考える。当前ですが、店に入るときと出るときで体の向きは正反対。たったそれだけのことで一瞬東西南北がわからなくなってしまうんです。

また、ある時普段と反対側の道を通ってみる。よく知った景色が少し違って見える。
「私」のように町が美しく思えるというわけではありませんが、知らない場所に来てしまったかのようなとまどい、奇妙な感覚は理解できる気がします。

あるいは、「ルビンの壺」などのだまし絵を見るとき。同じ一枚の絵なのに、壺か人物の横顔のいずれかしか認知できない。不思議な町に行くということは、壺(人物)として見るのをやめて人物(壺)に視点を切り替える行為に似ているのかもしれません。

最初の体験こそ偶然の産物でしたが、「私」は意図的に方位を錯覚させ、ミステリー空間で旅行気分を味わうようになります。こうして夢と現実の境界線を行き来することは、物事の「秘密の裏側」に対する「私」の憧憬を満たすものでした。

けれど、そんな「私」にとってもK温泉での体験は本当に思いがけないものだったのです。

猫、猫、猫!

温泉地から少し離れたU町へ向かった「私」。その日は鉄道を下車し、途中から歩いて行くことにしました。

この辺りは、いまだに犬神憑きや猫神憑きといった迷信が色濃く残る地域です。「私」は、地元の人間が語る噂について考えを巡らせているうち、またしても迷子になってしまったことに気がつきます。

そして、数時間かけてどうにかふもとに到着した「私」の眼前に広がっていたのは、見たこともないほど繁華かつ閑雅な町でした。

ぜひみなさんにも実際に読んでいただきたいのですが、不思議な夢の町に関する描写はさすが詩人だと感じます。本作の副題も「散文詩風な小説」ですしね。

見た目には人が多く、たいへんにぎわっているのにもかかわらず、深い眠りについているかのような静けさ。町全体がガラス細工でできているかのごとく、絶妙なバランスの上に成り立っている集合美。

美しい町の姿に圧倒されるなか、「私」はふいに一つの予感に襲われます。何か非常事態が起きるにちがいない、と。その場から「私」が逃げ出そうとした瞬間──

万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。(中略)見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。

猫の棲むところ

どちらかと言えば日常に寄り添ったイメージの犬に対し、(最近は室内飼いのお宅が多いかと思いますが)ふらりと出て行ってどこで何をしているかわからない、ミステリアスな存在の猫。そういった性質から、異界と交渉しているイメージも古くからあるようです。

柳田国男著『猫の島』(『孤猿随筆』所収)では、九州の猫嶽、東北の猫山、能登半島のはるか沖にある猫の島などの伝承が登場します。道に迷った旅人が猫の国に入り込んでしまう、という話は全国的にみられるとのこと。

「私」の置かれた状況そっくりではありませんか。
こういう不可思議なシチュエーションに似合うのは、やはり犬よりも猫という感じがします。

胡蝶の夢

さて、恐怖におののき自分をなくしそうになる「私」でしたが、再び目を開き落ち着いて周囲を見渡すと、そこはいつも通りのU町。これは詩人の単なる妄想であったのか。
先に紹介した『猫の島』にある柳田国男翁の言葉を借りれば、「『窓一ぱいの猫の顔』といふような、奇抜な新鮮味のある空想」といったところです。

物語の終わりは新たな疑問の始まり──本作でも触れられている荘子の「胡蝶の夢」は、「私が蝶になった夢を見たのか、蝶が私になった夢を見ているのか、どちらが現実なのか?」という疑問を提示した故事です。同じようなテーマは他にもさまざまな作品でみられますね(ルイス・キャロル作『鏡の国のアリス』にも同系統の問答があります)。

しかし、当の荘子はと言えば「どちらでもよい」というスタンス。目の前の世界をそのまま受け入れればよい、という考え方だったりします。

「私」もまた、目の前にあった世界を受け入れます。
甘美な悪夢・猫町の光景。それは時を隔ててなお目に焼きついて離れない確かな記憶。「私」にとって「私がそれを『見た』ということ」はゆるぎない事実なのです。だから、「私」は宇宙のどこかにきっと猫町があると信じます。

表とか裏とか、そんなものは誰かが決めた尺度。
私たちが歩いているのが実はメビウスの輪の上だったら、いったい何が起きるんでしょう? 気づかないうちに世界が反転してしまうのか? 
本作は、そんなふうに想像を膨らませてしてしまう、幻想的な一篇でした。

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