ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』

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『ねじの回転』が発表されたのは19世紀末。ゴシック小説のような、耽美な雰囲気を醸し出す幽霊譚です。精緻な心理描写が秀逸な、心理小説の名作として知られています。

訳者である小川高義氏のあとがきによりますと、「〈ねじの回転〉には人を苦しませる意味があって、〈ひどい状況下で、なおさら無理を強いること〉という成句になっている」そうで、説明を聞くと合点がいくタイトルですね。

あらすじ

仲間内で怪談話をした時のことだ。ある話は、幽霊(か何かそんなもの)が小さな子供に見えたことで、ひねりの効いたものになっており、そこにダグラスが反応した。

もし子供だということで、ねじを一ひねり回すくらいの効果があるなら──さて、子供が二人だったらどうだろう

(ヘンリー・ジェイムズ著、 小川高義訳『ねじの回転』(新潮文庫)より)

そしてダグラスは、知り合いが書いた手記の話を切り出した。

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語り手である「私」は若い女性。彼女が家庭教師としてイギリス郊外の古い屋敷に赴くところから物語は始まる。生徒は、両親を亡くした幼い兄妹マイルズとフローラである。敷地内で邪悪な幽霊を目撃した「私」は、兄妹を守ろうと行動するが……。

内容紹介と感想

「私」と屋敷の住人たち

「私」の雇い主は、兄妹の伯父で素敵な紳士です。しかし、おいたちから距離を置いており、我関せずの態度を崩しません。また、前任の家庭教師はなぜか亡くなっています。そのうえ、マイルズが学校への出入を禁止されたとの知らせが届き、序盤から不穏な空気が漂っています。

「私」は心細い状態で古屋敷を訪れるものの、天使のごとき美しい兄妹と会い、いったんは幸福な気分に包まれます。そして、この屋敷を仕切らねばならないという使命感に燃えるのでした。

手記の人物描写は、「私」とマイルズとフローラ、たまに家政婦のグロースさん、といった感じ。屋敷には他にも使用人がいるはずですが、存在感が希薄です。時代背景からすると仕方のないところもあるのでしょうが、彼らは「私」にとって名前のないその他大勢に過ぎないのかもしれません。

「私」と幽霊

「私」の平穏は、幽霊に遭遇したことで乱されます。幽霊のことをグロースに話すと、かつて世話係をしていた悪漢クイントと、前任の教師ジェセルの特徴と一致しているらしいことがわかりました。さらに、子供たちの態度にも奇妙な点が見られます。

ただし、この幽霊、「私」にしか見えないのです。もっとも「私」の見立ては、子供たちは幽霊を認識していながら知らんふりしている、というものですが。幽霊の狙いは子供たちを悪の世界に引きずり込むことであると考え、「私」は躍起になります。

「幽霊」はいたのか?

幽霊は実在したのでしょうか。あるいは、一家に対する不安や執着心のせいで家庭教師が見た幻覚だったのでしょうか。それとも、自身の行動を正当化するための虚言だったのでしょうか。

幽霊が存在しない場合、マイルズは「最近、先生変だなあ。グロースさんまで影響されているみたいだし。とりあえず適当に話を合わせるようにフローラに言っておこう」なんて考えていたのかもしれません。兄妹にしてみれば、幽霊より先生の方がよほど怖い状態です。

「私」はミステリーでいうところの「信頼できない語り手」であり、出来事はすべて主観で描かれているため、何が事実であるのか読者は混乱してしまいます。

プロローグの存在がまた難解さに拍車をかけるのです。ここではダグラスに妹がいること、家庭教師が昔の知人であることがわかり、ダグラス=マイルズとも読めます。とすると、ダグラスの実体験に脚色を加えた物語である可能性も出てきます。

さらに言えば、物語すべてがダグラスや、彼に原稿を託されたという友人の創作なのかもしれません。

おわりに

多重解釈ができる点は、国内作品ですと芥川龍之介の『薮の中』や夢野久作の『瓶詰地獄』に似ているように思います。ラストの理解についても意見が割れるでしょう。

『ユリシーズ』などにも見られる「意識の流れ(Streams of Consciousness)」の手法が、物語の奥行きを広げています。作者の術中にまんまとはまってしまう作品でした。