ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』

※当サイトでは、第三者配信のアフィリエイトプログラムにより商品を紹介しています。

『もうひとつの街』は、チェコの作家ミハル・アイヴァスの代表作の一つです。主人公は、冬のプラハで幻想の世界へと足を踏み入れます。

ここでは、他作家の作品もからめつつ、本作のストーリーを紹介していきたいと思います。

あらすじ

すべてをかなぐり捨てて、一緒に出かけませんか、探検に出ようじゃないですか。(中略)そう、境界の向こう側では、原初の舞踏を目にすることができるはずです。そして、その舞踏の痕跡こそが、私たちの世界にほかならないのではないでしょうか。

雪が降りしきる日のことだった。カルロヴァ通りにある古本屋で、「私」は菫(すみれ)色の装丁の本を発見した。

未知の文字で書かれ、闇夜で発光するその本をきっかけにして、「私」はプラハ市街のいたるところで「もうひとつの街」の存在を垣間見るようになる。地下寺院の謎の集会、どことも知れぬ場所へ向かう緑色の路面電車、魚の祭典──。

やがて、もうひとつの街に魅入られた「私」は境界を越えたいと思うようになり……。

内容紹介と感想

言語という海

不思議な本と出会うところから物語が幕を開けるのはエンデ作『はてしない物語』やボルヘス作『砂の本』みたいですね。

序盤はイメージの洪水におぼれそうになり、頭がくらくらしてきて、なかなか読み進められませんでした。たとえば、ペトシーンの地下寺院で行われる司祭長の説教は次のように締めくくられます。

私たちもまた、冷たい大理石を選択するのか、鱈の絵が描かれた缶詰から響く悲しい歌を選択するか、決断を迫られるときがやってくるはずだ。

「えっ、この人何言ってるの?」「実は深い意味があるのか?」「いや、やっぱり意味不明だ……」頭の中が?マークでいっぱいになって、ぽかんとしてしまいます。

今敏監督の映画『パプリカ』で、夢を蝕まれた研究所所長が「総天然色の青春グラフティーや一億総プチブルを私が許さないことくらい、オセアニアじゃあ常識なんだよ!」などと講釈を垂れる場面を思い出しました。

もうひとつの街の人々の台詞は始終こんな調子ですので、好きな人は好き、合わない人はとことん合わない作風であると思います。

プラハの街での彷徨/中心と周縁

本作では、実在の地名がたくさん登場します。夏目漱石の『こころ』ですと、「先生」がたどったであろうルートを描いた地図が教科書に掲載されていることがありますが、読んでいてあんな感じの地図がほしくなりました。

内陸国で海のないチェコ。それにもかかわらず、作中では海の生物が繰り返し現れます。魚の祭典、鐘楼のサメ、空飛ぶエイ、タコでできた帽子などなど。モチーフは母なる海、「原初の舞踏」を意識しているのか、海への憧れ、あるいは恐怖から来るものなのか。何はともあれ、これらの存在が非日常感を際立てるのです。

夜の闇の中、鐘楼の影の中、図書館の廊下の先、彫像の内側、クローゼットの中。そういったごく身近な場所に「もうひとつの街」は見え隠れします。あちら側の世界はこちら側から完全に独立しているわけではありません。

司祭長は普段ビストロの給仕をしていますし、「私」がイタチの大群に追いかけられるはめになった夜の哲学部だって、昼間は一般的なキャンパスです。「もうひとつの街」ではお祭りが多い(朗誦鳥の飼い主曰く「この街のひとびとは子ども」)らしいので、日本でいうハレとケのうち、ハレに寄った世界なのでしょうか。

想像力豊かなラッコの男の子が主人公の漫画『ぼのぼの』に、「ボクと会ってない時のみんなは皮をぬいで休んでるんだ」なんて台詞がありましたが、まさにそんな二面性を持つ状態なのかも。

互いに互いを意識的に見ないように暮らしている、モザイク状に入り組んだ二つの都市国家を描いた作品に、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』がありますが、「もうひとつの街」はまた事情が違い、プラハの街や人々とより肉薄した関係にあるようです。チェコの複雑な歴史背景を思わずにはいられません。

「私」は「もうひとつの街」の中心を目指したいと考えますが、マイズル通りにある店の主人から妙な言葉を返されます。「おまえさんが中心を探せば探すほど、中心から遠ざかっているんだよ」と。なんだか逆説的な話になってきました。「私」はいったいどうすればよいのでしょう?

「私」の冒険と選択

私が気に入っているのは、彫像内で飼われているミニヘラジカが出てくる場面と、空を飛ぶ場面です。

「私」が空を飛ぶ機会は二度あり、一度目は聖ヴィート大聖堂の屋根の上で朗誦鳥フェリックスとその飼い主に出会い、二度目はエイに乗って空の散歩を楽しみます。朗誦鳥の飼い主は、マイズル通りの気のいいおじいさんと並んで、あちら側に属する住人にしては珍しく「私」に好意的な人物です。

しかし、このような面白い体験ばかりではありません。「好奇心は猫を殺す」と言いますが、「私」はサメと死闘を繰り広げるなどの窮地に陥ります。さらに、再三のピンチと忠告にも懲りずに、大学図書館の奥にあるジャングルに突入する「私」。主人公もたいがい変人ですね。

訳者あとがきにもあるように、ハードボイルドやスパイ小説を好んでいるという作者の嗜好を全体的に強く感じます。『見えない都市』のオマージュを書くなど、作者はイタロ・カルヴィーノの影響を受けているようですが、カルヴィーノ作品に比べると、本作の風刺的な側面は意外と薄いのです。

本作は、シュルレアリスムの画家サルバドール・ダリやジョルジュ・デ・キリコの絵の小説版と言いますか、夢の世界を描いたような物語であると思います。私たちは夢から覚めたとき「変な夢だったなあ」と思ったりしますが、夢の中では変な出来事も普通に受け入れていたりするもの。そういう世界観です。

おわりに

「地面の下ってどうなっているのかな?」「あそこの部屋って入ったことがないけど、何があるんだろう?」「この機械の中身ってどんな感じだろう?」
日常に潜む謎めいた存在に焦点を当てた本作のベースには、こんな素朴な子どもの疑問のような未知への探求心があるのかもしれません。

起きているときにも夢見ることを可能にするような、不思議な世界が展開されている作品でした。